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徒然草

徒然草をマンガ製作中。
兼好くんは就活人生なんだよなあ。

人生の出だしは快調で、内大臣の家司(けいし)から六位の蔵人(くろうど)として後二条天皇のお側に使える事ができた。

蔵人を卒業して右兵衛佐(うひょうえのすけ)となり、五位という位も貰った。

だから位田(いでん)を貰っている。これでいちおう生活はできるんじゃないだろうか。
兼好君は何で食べていたのかわからないというのが定説だけど。

後二条天皇が二十四歳で亡くなったもんだから、失業してしまった。大覚寺統の後二条天皇に変わって、持明院統の天皇になったからね。

アメリカの共和党と民主党が政権交代して大統領が変わったら、官僚まで総とっかえというのと同じ原理だ。

でも、位田はあるんだから、何とか暮らせたんじゃないだろうか。

けれど、任官しなければ職田(しくでん)はもらえない。それで、就職が決まるまで都から引込んだんだ。

窓際族みたいに仕事が何にもないから、つれづれなるままに、思いつく事を書き連ねたんだね。


それからの人生、定職にはつけず、フリーター人生さ。
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忘日録

いたち

夕べ9時頃、博多区呉服町で「いたち」を見ました。親でしょうね、よく肥えていたようです。
小学校のときに(60年近く前です)、下厨子町で、家の床下に母親と子いたち2匹を見て以来でした。

ひと月くらい前にも、別の場所で夜中に見たような気がしたんですが。昨日ははっきり見ました。
政令指定都市のいたちです。大博通りを横切って、中央分離帯の植え込みに入っていきました。向こうまで渡ったかどうかはわかりません。

忘日録

博多松囃子

博多松囃子といっても他所にはほとんど通じまい。
ゴールデンウイークで必ず紹介される、福岡市の祭「博多どんたく」は、博多松囃子がもとになっている。

松囃子はもともと正月の行事。
室町時代、伏見宮貞成親王(ふしみのみやさだふさ・しんのう)の「看聞日記」(かんもんにっき)にも、地下殿原衆以下の松囃子が邸にきてくれたと喜んで書いてある。

松飾り用の松を伐り出し、領主の門松を立てるのが、拍子(はやし)ながらの行事となり、松囃子となった。
松を伐るのを縁起かつぎで、「松生やし」とよんだらしい。

葦(悪し)を葭(良し)、また、スルメ(博打でする目)をアタリメと言いかえたりしたのと同じだ。

毎年正月15日に、博多町人が寿老人・恵比寿・大黒の三福神を先頭に風流の行列を仕立て、福岡城へ入って城主以下に表敬する。

いまも、どんたくパレードの先頭には松囃子が立つ。稚兒舞が披露されて、パレードが始まるのだ。

パレードの後は、県知事、市長はじめ企業や老舗を表敬してまわる。
3日、4日の二日間で、90ヶ所以上を回る強行軍だ。
表敬先では酒肴の振る舞いがあり、猪口一杯ずつ頂戴しても90杯になる。

さて、三福神には傘鉾がつく。それぞれ一基の古式傘鉾があって、小振りの絵絹を六枚つける。
三基一枚ずつ三枚の絵を、日本画家や博多人形師が受け持つ。わたしも三枚描かせてもらっている。

今その製作中で、こんな文章を書いている暇はないのである。

*ネットでいろいろ写真が公開されているので、ぜひご一覧を。

川上音二郎と貞奴 2-1

 川上音二郎と貞奴② ――町人から平民、国民へ、そして国際人へ 


                     1205〇〇~  注;;本稿はまだ完成していません。

2 青年期①――民権活動家として、芸人として



   音二郎 東京の2年間


明治10年13歳で家出をしたという音二郎の話は愉快である。

① 団平船に隠れ、もぐりこんだ蒸気船が出航してから見つかったが、船長は父の知り合いで、航行中に下船させるわけにもいかず、大阪まで乗せていってくれた。

② 音二郎はなんとかかんとか東京へたどりついた。

③ 口入れ屋(私設の職業斡旋所)へいったが、保証人がないので断られた。

④ 腹をすかせ、芝の増上寺に入り込んで、供物で飢えをしのいだ。

⑤ 寺の者に見つかったが、小僧になった。

⑥ その増上寺で犬を連れて散歩に来る福沢諭吉にであい、慶応義塾の塾僕(学僕)になった。塾僕とは住み込みの用務員兼無費塾生で、仕事のあいまに授業を受けることができた。

⑦ 門限破りの塾生に小遣いをもらい門を開けてやったりしたのが発覚、義塾を追い出された。

⑧ それから裁判所の給仕になり、みんなを先導して賃上げ要求をしてくびになった。
その後、

⑨ 仕方がないので、洋傘の張替えなどをしながら博多へ帰った。

⑩ そして博多で巡査になった。

⑫ そして京都で巡査になった。

⑬ そして自由民権運動家になった。

⑭ そして芸人となった。

⑮ そして新俳優となり、貞奴と結婚した。

保証人の問題

以上は井上本や江頭本その他の伝記によるが、著者たちもどこまで信じてよいのか思案のもようである。
⑧裁判所の給仕時代、同僚をあおって賃上げ要求をした(江頭本)というのは、のちの民権家となるべき資質がうかがえるエピソードともいえる。

ここで疑問に思うのは、③口入れ屋にいったが、保証人がいないので断られたことである。
それならば、⑧裁判所の給仕も、⑥慶応義塾への住み込みも保証人が必要だったのではないだろうか。

家出のままあちらこちらで孤軍奮闘したという物語は、たぶんに音二郎がつくった面白話ではないかと推測できるのである。

「福翁自伝」に、音二郎のことかもしれないと思われるエピソードがある。

■ 福沢諭吉「福翁自伝」岩波文庫p25,26
「少年の時分から老年の今日に至るまで、わたしの手は怒りに乗じて人の身体に触れたことはない。ところが先年二十何年前、塾の書生に何とも仕方のない放蕩者があって、私が多年衣食を授けて世話をしてやるにも拘わらず、再三再四の不埒、

あるときその者が何処に何をしたか夜中に酔って生意気な風をして帰ってきたゆえ『貴様は今夜寝ることはならぬ、起きてチャント正座しろ』と申し渡して置いて、少しして行って見ればグウグウ鼾をしている。

『この不埒者め』と言って、その肩のところをつらまえて引き起こして、眼の醒めているのをなおグングンゆたぶってやったことがある」

         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 博多出奔後の音二郎は、民権運動の演説家として世間に登場する。しかし、明治16年8月と18年1月に、2度の「一年間全国政談禁止」の措置を受け、3月には講釈師として遊芸人の鑑札を受けている。

この項では、この3年余りの自由民権活動期の音二郎を見る。
一方貞奴は、17年13歳で半玉「小奴」となり、19年に「奴と」いう名で芸者となる。

博多の伝統文化は京阪、そして江戸の町人文化の影響が大きい。音二郎と貞奴は、それぞれのサンプルとして注目すべき存在と考えられる。
ここでは、大衆、その他大勢としての二人と、世の中を動かす人々との接点を探ってみよう。 まず、貞奴の境遇、半玉とは何か。

□ 半玉小奴 廃娼運動と牛馬解き放ち令  

葭町の貞奴はどうしていただろう。
音二郎がはじめて1年間政談禁止措置をうけていたころ、明治17年(1884)、13歳の貞奴は「小奴」の名で半玉となった。

半玉とはお座敷見習いというところでお酌ともいい、座敷に上がる。玉代(線香代・花代)が一本(芸者)の半分であることから半玉といった。

一本とは線香一本のことで、芸妓の勤務時間を計るのに線香を立てたのでそういった。
玉代というのに加え、線香代、一本という呼称がある。関西では花代という。

葭町
貞奴が暮らす葭町は、昔は遊郭吉原だった。江戸中に散らばる遊郭を一箇所にあつめて公認した
のである。

場所は葭の繁る埋立地で、遊郭ができたはじめは葭原と書いたが縁起をかついで吉原とかえた。明暦の大火で吉原が焼けると、悪所が江戸の中心に余りに近いということで、浅草の奥へ移転させられ、新吉原となった。

そしてもとの吉原は葭町という町名となり、元吉原と呼ばれるようにもなった。
葭(ヨシ)は葦(アシ)の別名である。アシが悪しに通じるので平安貴族がヨシと言いかえた。
スルメを賭け事でする目では縁起が悪いからアタリメといいいかえたのと同じだ。

□マリア・ルース号事件

 貞奴が半玉小奴となる2年前(M15 )、群馬県議会では全国初の廃娼建議が採択された。この廃娼運動は群馬県安中教会につどう湯浅治郎らクリスチャン県議が中心であった。

建議採択から紆余曲折あって法令化は12年もかかったが、明治29年群馬県下の貸し座敷・娼妓の廃止につながった。
群馬県のみが、それから昭和30年の売春防止法発効まで、日本で唯一の廃娼県だった。

廃娼運動は日本キリスト教婦人矯正会や救世軍が、明治前期からはじめていた。きっかけは明治5年(1872)の「マリア・ルース号事件」ともいわれる。

横浜港に着いたペルー船マリア・ルース号から数人の中国人苦力(クーリー、下層の肉体労働者)が逃げ出して訴えでたことから、奴隷売買と虐待が発覚した。神奈川県庁の臨時法廷で裁判となり、日本は奴隷を禁止しているという理由で、231人の苦力全員を釈放した。

この裁判中、ペルー側から日本の芸娼妓は身売りされた奴隷ではないかという反論がでた。政府は諸国への体面上、同年10月「芸娼妓解放令」をだした。

これによって芸妓・娼妓は借金の有無にかかわらず、廃業することができるようになった。世界で公娼制度が最初に廃止された法令で、一応画期的であった。一応という理由はのちに記す。

 芸娼妓解放令は「牛馬解き放ち令」ともいわれる。その意味は、司法省達(たっし)に「娼妓芸妓は牛馬と同じ。牛馬に借金の返済を迫る理由はない」と書いてあったことによる。
このときの司法卿は江藤新平だった。太政官達、司法省達の原文は以下のとおり。

太政官達第二百九十五号(芸娼妓解放令)
○第二百九十五号(十月二日)(布)
一人身ヲ売買致シ終身又ハ年期ヲ限リ其主人存意ニ任セ虐使致シ候ハ人倫ニ背キ有マシキ事ニ付
古来禁制ノ処従来年季奉公等種々ノ明目ヲ以テ奉公為致其実売買同様ノ所業ニ至リ以ノ外ノ事ニ付
自今可為厳禁事

一農工商ノ諸業習熟ノ為メ弟子奉公為到候儀ハ勝手ニ候得共年限満七年ニ過ク可カラサル事
   但雙方和談ヲ以テ更ニ期ヲ延ルハ勝手タルヘキ事

一平常ノ奉公ハ一ケ年宛タルヘシ尤奉公取続候者ハ証文可相改事

一娼妓芸妓等年期奉公人一切解放可致右ニ付テノ貸借訴訟総テ不取上候事

右之通被定候条屹度可相守事  (太政官達二九五号、一八七二年一〇月二日)

~~~~~~~~~~~~~~~~~

■司法省達第二十二号(十月九日)
本月二日太政官第二百九十五号ニ而被仰出候次第ニ付左之件々可心得事

一人身ヲ売買スルハ古来ノ禁制ノ処年季奉公等種々ノ明目ヲ以テ其実売買同様ノ所業ニ至ルニ付娼妓芸妓等雇入ノ資本金ハ贓金(ぞうきん;不正に得た金;補)ト看做ス故ニ右ヨリ苦情ヲ唱フル者ハ取糺ノ上其金ノ全額ヲ可取揚事

一同上ノ娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ故ニ従来同上ノ娼妓芸妓ヘ借ス所ノ金銀並ニ売掛滞金等ハ一切債ル(とる、かりる?)ヘカラサル事
  但シ本月二日以来ノ分ハ此限ニアラス

一人ノ子女ヲ金談上ヨリ養女ノ明目ニ為シ娼妓芸妓ノ所業ヲ為サシムル者ハ其実際上則チ人身売買ニ付従前今後可及厳重ノ所置事   (第二二号、一八七二年十月九日):明治五年
        
           ~~~~~~~~~~~~~~~~

二通の達は、○1売春そのものは認めていたことと、○2前借金の返済権をのちに大審院が認めたことで、完全な廃娼にはむすびつかなかった。

これが上に述べた、いちおう画期的な法令だったという意味である。
遊郭は貸座敷と形を変えて生き残った。貸座敷は座敷を提供するだけであり、娼妓は自由営業で客を接待する。貸座敷の経営者に部屋代を払うという建前となった。

芸者は置屋が抱え、座敷に出張するという形が江戸時代にできていた。

貞奴は浜田屋の養女となったというが、金銭授受が、親と女将の間で行われれば、解き放ち令に抵触する。解き放ち令はペルーに対する見せ掛けだったとも考えられる。

□ 江藤新平の平等観
当時、司法卿だった江藤新平は、法律において基本的人権・男女平等を謳っている。学制におい
てもそうだった。
江藤のいう人権・平等は、娼妓・芸妓にはおよばないものだったのだろうか。

さかのぼって江戸時代の幕府役人は、娼妓を人間とは認めていなかった。牛馬並みに1頭2頭と数えた。「娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラズ」という達の文章は、旧時代の差別感をそのまま踏襲しているようにみえる。

しかしつづく結論は、「人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ故ニ従来同上ノ娼妓芸妓ヘ借ス所ノ金銀並ニ売掛滞金等ハ一切債ルヘカラサル事」である。

江藤は、自発的に身を売る者はべつとしている。それ以外の、借金のかたに無理やり苦界に売ら
れた女性たちをここでは対象としている。
江藤は彼女らを救済するための方便として、法文には不似合いな「牛馬」という語を意図的にもちだした、と考えたい。妓楼の主たちには、このことばこそ説得力がある。彼らこそ、芸娼妓を牛馬として扱っていた。その言葉を逆手にとったのである。      

ともあれ、貞奴が濱田屋の養女となったのが牛馬解き放ち令以後であったことをみても、ふたつの達が人身売買禁止社会を実現できなかったことがわかる。

■的野半介「江藤南白 上」。毛利敏彦「江藤新平 急進的改革の悲劇」中公新書840 所収 p130、p134
 江藤は文部大輔としてわずか17日間(4年7月18日~)の在任中に近代教育法「学制」の基をなし

、左院副議長(8月4日左院一等議員着任。10日副議長着任)に転出しては、8月9日以来、士族の

脱刀許可・華士族平民相互の通婚許可・被差別者の平民化・田畑勝手作・県治条例・華士卒族職業

選択の自由・卒身分の廃止・土地永代売買解禁と、明治4年から5年にかけて矢つぎばやに改革案

を布告させた。また、5年3月14日教部省御用係兼務となると、27日には「神社仏閣の地にて女人結

界の場所之有り候処、自今廃止され候条、登山参詣等勝手に為すべき事」と布告し、女性の寺社立ち

入りや宗教活動参加の制限を撤廃した。

「人権自由の理想に富める南白(江藤)は、女人禁制の陋習(ろうしゅう)を忌むこと甚だしく、ただちに
……此の廃令を見るに至りたり」

       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

という事績を照らし合わせても、牛馬解き放ち令に差別観をもってしたとは考えられない。

同年4月25日初代司法卿(しほうきょう;いまの法務大臣)となって、またたくまに近代刑法を打ち立てた江藤新平は、2年後、佐賀の乱で、大久保利通の強引な暗黒裁判により、刑死。さらし首にされた。

大久保は写真を取らせて、全官庁に張り出させたという。その後写真は民間で売買されるようになり、さすがに禁止命令が出された。

■美登利と小奴
明治の吉原を背景とした樋口一葉の「たけくらべ」は、「聖と俗」との交差を、子どもたちの小世界を中心に描いている。

小説の舞台は吉原とそこに隣接する界隈で、もっとも俗にまみれた場所といえる。
物語は幻燈のようにすすみ、聖が俗に汚されるいくつものエピソードが象徴的に織りなされる。

ただひとり、人生を聖らかに生きるかと思われる少年信如は、しかし和尚である父の俗性によって常に汚されつづけている。祭の化粧で美しい美登利の額は、泥だらけの草鞋を投げつけられねばならない。

美登利が、鼻緒の挿げ替えのため、信如に渡そうとした友禅の端布は真如に手渡されることなく、雨土にまみれる。最後のエピソード、格子門に挿され置かれた水仙、美登利が一輪挿しに投げ込んだそれは、つくり花である。

江戸時代、女性は二十歳を過ぎると、もう娘ではなく年増と呼ばれた。「十五で姉やは嫁にいき」と歌われた時代である。23.4歳ならば中年増、そのうえは大年増であった。

もっとも明治28~29年に発表された「たけくらべ」には、「三十くらいの年増が」という表現があるのだが。しかし、24歳で没した一葉の、結婚・出産という女性としての通過儀礼への意識はどうだったろう。

結核という死に至る病の自覚はあったのだろうが、同時に、婚期を逸しつつある苦い自覚もまたあり、女性として、いたたまれぬ諦念に歯噛みする思いもあったのではなかったか。 

数々の名作をものした「奇跡の14か月」とよばれる夭逝直前の多作は、一葉のそうした諦念のなせるわざだったのかもしれない。
雅文調といわれる一葉の文章は、研鑽してきた「聖なるもの」を、せっぱつまって貧困に売り渡すという、いわば文学上の堕落によって成立したのではなかったか。

聖なる雅文調によって、もっとも俗な世界を描き出すというアイロニカルな作業はしかし、もっとも聖なる物語を紡ぎだしたのであったが。

□一葉の日記

「たけくらべ」は「めざまし草」誌上で森鴎外や幸田露伴に絶賛され、世の耳目は一葉に集中した。しかし著者ひとりは醒めていて、自分では際物作品と考えていたのかもしれない。めざまし草での絶賛のあと、一葉は日記「みづの上」に書く。
■ 我を訪ふ人十人に九人まではたゞ女子なりといふを喜びてもの珍しさに集ふ成けり、さればこそと
なる事なき反古紙作り出ても今清少よむらさきよとはやし立る、誠は心なしのいかなる底意ありとてもしらず、我をたゞ女子と斗見るよりのすさび。

されば其の評のとり所なきこと、疵あれども見えずよき所ありてもいひ顕はすことなく、たゞ一葉はうまし、上手なり、余の女どもは更也、男も大かたはかうべを下ぐべきの技倆なり、たゞうまし、上手なりといふ斗そのほかにはいふ詞なきか、いふべき疵を見出さぬか、いとあやしき事ども也。

          ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

たけくらべの冒頭には、長屋の軒先にぶらさげられた際物の下ごしらえが描写されていて印象的だ。
一葉の父は中農層の出であったが、幕末に甲州から江戸へ駆け落ちして武士となった。
順風であったが、戸主を継いだ長男が23歳で病死し、娘の一葉が家を継いだ。江戸時代では考えられないが、新時代の制度である。

しかし、父が手を出した事業が失敗し翌年他界したため、その借財を背負わされ、母と妹を養わなければならず、貧窮のうちに死んだ。
 
ところで樋口一葉は明治5年の生まれで、貞奴の一歳年下である。偶然にもふたりは、描くものと描かれるものとして同時代に生きた。

貞奴は、
「養母は自分を大事に育ててくれた。つらい仕事などは一切させなかった」(???本)
と語っていて、たけくらべの美登利が大黒屋で勝手きままに育てられている姿と重なってみえる。置屋の濱田屋にとって貞奴は芸妓、遊郭大黒屋にとっての美登利は花魁・太夫となるべき大事な「商品」であった。
貞奴は、自分は利発でおてんばだったと語っていて、これも美登利に共通する。上級の芸娼妓はこの二人と同じような育てられかた― 女の帝王学 ―を受けたようである。

 「十五で姉やは嫁に入り」の歌にもどると、夕焼け小焼けの歌は「お里の便りも絶え果てた」とつづいて終わる。
  夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か
  山の畑でクワの実を 小籠に摘んだは幻か
  十五で姉やは嫁に行き お里の便りも絶え果てた

自分の子守であった姉やが嫁にいってしまい、姉やのお里から手紙も来なくなった、という歌詞である。
姉やの里から手紙が来なくなったのは、いつごろだろうか。

赤ん坊が生まれたという知らせはあったのだろうか。もしそれさえなかったとしたら,娘の雇い主にまるで恩義を感じていないかのようだ。実は、姉やは嫁にいったのではなく、身売りされたのではないかと思っている。

「絶え果てた」ということばには一家離散のイメージさえわいて,突きはなされてしまう。

 13歳の半玉である小奴は,葭町のお座敷にデビューした。葭町にはかつて「奴」という一番の名妓がいた。養母亀吉は貞奴が一本になったとき、貞奴の座敷名を「奴」にするつもりで、大事に育て、貞奴に小奴の名をつけたといわれている。

□ 半玉すずめの場合

半玉(お酌)のことで、慶応義塾学生の回想がある。「豈好同盟会」(がいこう―)という演説の会をつくって盛んに雄弁を振るっていた明治21年、日本橋木挽町の明治会堂での演説会に学友たちと乗り込んだら、憲法発布が翌年2月11日と決まったので、演説会が流会となりそこで…

■篠田鉱造「明治百話」岩波文庫。p39~
三人は仕方がないから引揚げる時「どうだ、祝杯を挙げよう、ソレから先輩は皆な芸妓(げいしゃ)を揚げているが、
我輩達も今日は憲法発布の前祝いに芸妓を聘(よぼ)う」「よかろう」とあってその頃土橋にあった昌栄楼へ押し登り、お酌を一人よばせた。
演説場では、雄叫びの荒武者達も勝手の違った芸妓遊びに、口を開くにも顔が紅くなるというウブな連中だが、
そのお酌というのが妙齢十六、美貌の持主で、役者喜知六の娘分で、すずめというシタタカ女(もの)で、
芸は何でもござれ、意気地があって、家橘*が色で、伊藤巳代治*を綾なしている*というのに、
青二才の私達が、お歯のたつはずがない。

*家橘…十代市村家橘か   *綾なしている…いいようにあしらっている


         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

伊藤巳代治は長崎の町年寄出身。伊藤博文の憲法調査(83年)に随行して渡欧し、帰国後は制度取調局御用係として法整備にあたった。憲法草案作成(87)に参加した4人のうちの一人。

この年21年は御用係を続けていたと思われるが、翌年には第3次伊藤内閣の農商務相に着任する。その31歳の男盛りを、数えの16、満15歳のお酌が、綾なしているのである。

□ 半玉小奴の場合

座敷での小奴はどのようであったろうか。小奴は、慶応義塾の学生であった岩崎桃介としりあい、将来を誓いあったというエピソードがある。貞奴の乗馬に関するとき、また音二郎の死後を語るとき検証してみたい。

小奴は置屋の女将かめ吉の思惑どおり、政財界の上客にかわいがられた。時の初代総理伊藤博文、実業家藤田伝兵衛などが小奴をかわいがった。

童門本「川上貞奴」に「とらない」と書かれた誓文の写真が掲載してある。伊藤博文・井上馨*・藤田伝三郎*・内海忠克*の4人が、小奴を取らないと誓った戯ごとの誓文である。

料亭の女将長谷川於鈴が立会人となった。いいだしたのは伊藤で、結局は皆を出し抜いて小奴を水揚げしたという。英雄色を好む時代だった。

小奴には、家橘が色といわれるすずめのような存在は書かれていない。座敷に上がった年に、伊藤が取らないという誓文をつくったりしての目を掛けているので、養母亀吉には小奴の「色」の心配は不要だったと思われる。

 *井上馨……1836-1915 長州萩藩士。松下村塾出身。第1次伊藤内閣で外務大臣。鹿鳴館はじめ欧化政策の推進で失脚。復帰後、農商務相・大蔵大臣など歴任。元老として力を振るったが、三井財閥との密着から「三井の番頭」などとよばれ、トップにはなれなかった。

 *藤田伝三郎…1841-1912 長州豪農出身。騎兵隊隊員。維新後長州閥と関係して巨富を得た。兄の藤田鹿太郎らと藤田組を組織。関西財界の重鎮。

 *内海忠勝…1843-1905 長州藩士。禁門の変に参加。岩倉使節団に大使随行員。長崎はじめ諸地方で県令・知事歴任。1901第一次桂内閣で内務大臣(第20代)。

□巡査から民権家へ
 裁判所をくびになった音二郎は、明治14年、17歳のとき博多で巡査となった。石堂橋際の交番にいたらしい(井上本)。

翌年には京都でも巡査をした。この頃巡査は官費で教育を受けられた。警察学校の前身である。(←確認)仕事をしながら教育を受けられるという、向学心のある貧乏青年にとっては都合のよい職場だったといえる。(志願者の階層確認を)。

巡査には法律の理解能力と遵法精神が必要であり、そのための教育機会の提供であったのだろう。巡査ははじめ羅卒(らそつ)といわれた。江戸時代では目明しに相当するだろう。

音二郎だけでなく、壮士芝居の嚆矢といわれる角藤定憲もまた巡査の経験があった。二人とも巡査を経て、反政府自由民権運動の活動家となり、壮士役者となった。巡査の中から体制に反抗する者たちがでたことは警察機構としては皮肉である。

一方、取り締まられる側の自由党も10万円の資金をもとに、党員・運動員の教育をはじめている。14年10月に結党した自由党だが、運動資金が不足していた。

「自由党史」によれば、15年の秋、自由党寄付金法をつくって寄付を募ったが、集まりが悪いので翌16年8月に資金10万円募集の檄を発した。

■ 板垣退助監修・遠山茂樹・佐藤誠朗校訂「自由党史 中」岩波文庫 青105‐2 p342
「其最も急要なる者を挙ぐるときは、曰く講習所を置くなり、曰く党員の巡回を盛にするなり、曰く新聞の業を昌(さかん)にするなり、曰く出版の業を起こすなり、曰く練武場を設くるなり、曰く外国の人と交通

するなり、曰く集会を開くなり。…講習所を置く所以(ゆえん)のものは他なし。我党已に天下の大事を以て自ら任ずるときは、当(ま)さに務めて書を読み道を講じ、以て之にあたるに堪ゆることを求めざる可らず。…」

            ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

板垣退助を総裁とする自由党をはじめとして、多くの団体が政治演説などで反薩長政府運動をおこなったが、壮士とよばれる民権活動家たちは、劇場や寄席、あるいは縁日などで、無料・有料の演説会を開いた。彼らは民権運動によって生活費を得てもいた。

□ 新聞名義人

倉田喜弘「近代劇のあけぼの」(毎日新聞社S56)は、音二郎の演劇を「近代演劇の嚆矢」と論じ、また音二郎の生涯について、当時の新聞雑誌を精査したはじめての書である。
同書には、音二郎が早く「明治15年11月に名古屋大須で政談演説(中止解散)」をしたと記されている。
井上本の「京都で巡査を拝命」はおなじ15年である。ならば巡査になったのは大須演説の11月以前であり、巡査勤務は短期間だったであろう。

ともかく、明治14年博多、15年京都での巡査勤務から、15年11月大須演説までの変遷には驚かされる。さらに同じ年、立憲政党新聞の名義人*になったとも書かれているのである。

① 巡査と名義人の時期はあるいは重なっていたかもしれない
② 職務で取り締まりに加わっているうち、民権運動に傾倒して巡査を辞し、身を投じたという見方もできる 
③ 慶応義塾の塾僕だったころ、音二郎は寄席や芝居に入りびたったといわれるが、義塾で演説・政治演説を聞いている可能性も高い。

2年前の明治8年にできた慶応義塾の「三田演説館」で、学生の演説を聞いたり、訓練を受けたりすることも可能であった。

新聞の名義人は、違反があるとき新聞紙条例、讒謗率によって罪を科せられる。未成年ならば罪が軽いので、新聞存続のため未成年を名義人に仕立てたのである。

*      *      *      *
□音二郎民権運動へ

讒謗律  (ウイキペディア)
第一条 凡ソ事実ノ有無ヲ論セス人ノ栄誉ヲ害スヘキノ行事ヲ摘発公布スル者之ヲ讒毀トス。人ノ行事

ヲ挙グルニ非スシテ悪名ヲ以テ人ニ加ヘ公布スル者之ヲ誹謗トス。著作文章若クハ画図肖像ヲ持ヒ展

観シ若クハ発売シ若クハ貼示シテ人ヲ讒毀若クハ誹謗スル者ハ下ノ条別ニ従テ罪ヲ科ス。
(大意の口語訳)

事実の有無に関係なく、他人の名誉を損ねる出来事を暴き、広く知らせることを讒毀とする。出来事を

挙げず、他人に悪名を押し付けて広く知らせることを誹謗とする。文章や図画を見せたり、売ったり、貼

り付けたりして他人を讒毀したり誹謗したりするものは、以下の条によって罰す。

また第二、三、四、五条でそれぞれ天皇、皇族、官吏、それ以外に対する讒毀・誹謗に対する罰則を

定めており、定められた罰の重さもこの順である。
*     *     *     *

■(井上本p14)
「明治15年(一八八二年)ごろ再び上阪、京都に行ってここでも巡査を拝命している。取締まる側から間もなく、取締まられる立場になるのだから、人世は面白い。
巡査になった音二郎は、非番の日に京都南座での立憲政党大演説会を聴きに行った。

中江兆民(一八四七-一九〇一年。土佐出身の思想家。自由党の創設に参画し、第一回総選挙で代議士に当選)と中島信行(一八四六一八九九年。土佐出身、もと海援隊員、のち自由党副総裁、帝国議会初代議長)の演説に大いに感動させられた。

たまたま中島信行の機関新聞「立憲政党新聞」が京都で発行されることになり、音二郎は巡査を辞してその党員となり、新聞発行の名義人となった。

もちろん立憲政党は反政府だから、新聞の主義、主張は過激で、たびたび官憲侮辱で罪を負わされ、名義人の音二郎は一年のうちに五,六回も監獄の臭い飯を食わされた」

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■ (江頭本p55)
「…(音二郎は)立憲政党新聞が京都で発行されることになると、さっさと巡査を辞職、新聞発行の名義人になる…

…目を九州に転ずると福岡日日では十四年八月、井上熊吉編集長が、また十六年四月には大隈捨虎編集長がそれぞれ新聞紙条例違反のかどにより大審院(最高裁判所)で罰金十円、同二十五円の判決を受けた。

井上が十五歳、大隈が十七歳の未成年だった。『成人ならば禁獄一月以上一年以下、罰金百円以上五百円以下』のところ、その程度ですんだのである…井上編集長は二年後再び禁固五箇月、罰金刑百二十二円五十銭を受ける」

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「書生が月に2円80銭の賄い費、一般下級官吏の月給は20円ぐらいであったから、罰金100円以上というのが新聞にとって大きな痛手となることはわかるだろう。

ちなみに伊藤博文が貞奴と同時期に世話をしていた小吉という大阪芸妓は、月に300円の給与を受けていたという。総理の年俸は9600円で、月に換算すると800円だった。
伊藤はほかにも女がいた」(童門本より)。

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それぞれに手当てを出し、座敷遊びもしていたのだから、どのくらいの副収入があったか、またどれほどの国家予算が待合政治に使われたことであろうか。

ところで、音二郎が名義人となった京都で発行の「立憲政党新聞」であるが、「日本立憲政党新聞」ならば中島信行によって大阪で発行されている。また、名義人そのものが何であるかを詳述した書はない。まず「立憲政党新聞」をみてみる。

日本立憲政党新聞は、明治14年11月自由党の別働隊として大阪に創立された立憲政党の総理中島信行が、翌明治15年(1882) 2月1日に大阪で発刊した民権新聞である。音二郎はこの新聞が京都でも発行され、その名義人になったのだろうか。

*音二郎が日本立憲政党新聞の名義人であったことの出典は不明。国立国会図書館から日本立憲政党新聞の第1号と3号のコピーを取り寄せたが、奥付面が送られて来ず、そのまま放置中。

□藤沢浅二郎

藤沢浅二郎(1866-1917)は演劇活動における音二郎の盟友である。音二郎とであう前、京都で中井桜洲居士が主筆をしていた「活眼新聞」の記者であった。

そのとき、署名人となっていて、条例違反で60円の罰金刑を受けたことがある。
(藤沢浅二郎からの聞き書き「川上音二郎」(東京日日新聞・明治44年10月25日から11月30日まで連載)「自伝川上音二郎・貞奴」(藤井宗哲編・三一書房。以下自伝と略す。p258)所収。)

*立憲政党新聞の名義人…管見では諸本には新聞名に「日本」とついたものは見当たらないので、立憲政党新聞と日本立憲政党新聞は別種かもしれない。しかしいまのところ立憲政党新聞が京都で出版あるいは発行された記録は見ない。 

日本立憲政党新聞の発行ではなく、販売であるなら理解もできるが、京都の分だけ奥付をかえ、名義をかえて印刷することはあるだろうか。行政区が変われば、その行政区の許可が必要かもしれないが、未確認。

藤沢浅二郎(→Wikipedia)…「平民新聞社で雑誌「活眼」の記者となり、1888年(明治21年)、中江兆民を主筆に大阪で創刊された『東雲新聞』(東雲新聞社)の記者となる。このころ、川上音二郎と知り合う。

署名人という名称が出た。署名人と名義人とは同じものだろうか。まず新聞紙条例公布に至る
過程をみてみよう。

政府ははじめ新聞紙印行条例(明治2)を公布して新聞の刊行をうながそうとしたのだが、征韓論をめぐる争いが起ると、新聞紙発行条目を公布(明治6年10月)して世論鎮圧にのりだした。

つづいて自由民権運動が高まると、明治8年6月28日太政官第111号新聞紙条例を布告して運動の弾圧を図った。
新聞紙条例の第一条には、新聞や雑誌雑報を発行するには願書を出さなければならないことにな
っている。

願書に署名する者…持主・社主・編輯人・編輯人長・印刷人と会社の場合の数人。

さらに第六条では
「毎号毎巻の尾に、編輯人、印刷人名を署し…紙中若しくは巻中載する所に付ては、紙尾署名の編集人若しくは編集人長一切責に任ずべし」
とある。
書類に記載漏れがあるのはまず考えられないので、音二郎は紙尾署名の編輯人か編輯人長のいずれかに名義を貸したのだろう。
井上本によれば党員になったというから、名義を貸したというより、もっと積極的に名乗り出たというほうが事実に近いかもしれない。

江頭本に先述のとおり、名義人の例が2件紹介されているが、今西一の論文「民権期京都の都市言論人物群像」(小樽商科大学学術コレクション:ネット)にも例がある。

■「『西京新聞』創刊号の印刷長桂彦次郎は一八七一年生まれであるから、当時五歳ということになり、これは『筆禍除けの署名人の好例』として伝えられている」

 明治8年(1875)の新聞紙条例・讒謗律公布後の一時期は、言論史上「言論の撲滅時代」と呼ばれているという。
京都は言論弾圧の特に厳しい地域で、明治10年と11年に京都で発行された9紙誌のうち6紙誌が休廃刊になった。

京都での言論弾圧第1号は明治9年12月の「煥文新紙」の発行停止である。
■ 「編集長松本孝輔他出中ニ候得共、同人名前を以発兌(はつだ。販売の意;補)仕度」という「御願
書」を「松本孝輔雇入 本間克忠」名で、京都府知事槇村正直に提出し、即日で「聴入」られ、翌十三日付で五十二号を発行する。

しかしその直後の15日、「松本孝輔儀、当局於取糺筋有之…(p111)ということで、11月24日に呼び出したところ長崎出張中だった。帰京次第出頭するはずなのが、

「然るに本月十三日発兌該誌五十二号紙尾右松本孝輔の署名有之候付、尚又た本日喚出候処、本人は未だ帰府不致由」というので、京都裁判所検事局は激怒した。

新聞紙条例の第6条第2項に、編輯人もしくは編輯人長疾病事故あるときは代理人を定めなければならないとあり、その項に違反しているとして、京都府に回答を求めた。

京都府は12月15日付で「煥文新紙」の発行を停止、京都府参事国重正文は「待罪書」を太上大臣三条実美に提出した。

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この経緯をみると、松本孝輔は煥文新紙の発行まえから、
① 検事局に目をつけられており、
② 新聞を発行してもすぐに禁止・停止になるだろうことを予測しており、
③ 長崎に避難していたことがわかる。
また、
① 京都府は新聞紙条例が言論統制目的であることを理解できておらず、
②太上大臣に「待罪書」を出すなど、地方官吏と中央の力関係もわかる。
 
煥文新紙は発行停止となったが、あけて10年、ひと月たたない1月28日には「西京新聞」と改題して発行している。
西京新聞の印刷長は先述のとおり5歳の桂彦次郎だった。

躍起となって言論統制を図る政府と、条例の抜け穴を探って言論を確保しようという民権家の戦いに注目すべきである。
 
名義人は何もしなくていい魅力的な小遣い稼ぎである。しかしいったん拘引されれば油を絞られひ
どい取調べを受ける。その過程で音二郎が警察、そしてその上の組織に対して反発心をもったこと当然考えられる。

□ 自由民権運動

 ここで、改めて自由民権運動とは何かをみてみる。
■自由民権運動……日史大
1870年代中葉から1880年代に掛けて、明治専制政府に対し、憲法制定=国会開設、地租軽減、条約改正、言論集会の自由、地方自治などを要求して闘った国民的な民主主義革命運動。

自由民権運動の展開過程は、次の四つの時期に分ける事ができる。

「生成期」
運動の開幕となった1874年(明治7)の前参議板垣退助・後藤象二郎や小室信夫など8名による民選議員設立建白書の提出から、立志社(土佐国)・自助社(阿波国)等の民権政社の設立、1875年愛国者の設立創立を経て、1877年西南戦争での士族反乱の最終的敗北までの時期。

この時期の立志社・愛国者を中心とする運動は、専制政府批判自由民権思想の普及に啓蒙的役割を演じ、また、1875年漸次立憲政体樹立の詔勅の発布を余儀なくさせて、各地の民権結社の結成を促したが、国民的の運動ではなく、一部の士族および豪農層の参政運動にとどまった。

その言論活動には、天賦人権論を主張する急進的論調が目立ったが、台湾出兵や士族反乱に参加する動きを示すなど、不平士族的性格をももっていた。

「高揚期」
立憲政体の樹立、地租軽減、条約改正の自由民権の三大綱領を統一的に提示した1877年(M10)立志社建白から、各地方結社の発展と1878年(M11)愛国社再興によるその統一、

1880年(M13)愛国社第4回大会での国会期成同盟の結成と8万7000人余(ここに音二郎は署名しているかも;補)を代表する片岡健吉・河野広中の国会開設上願書の提出を経て、

1881(M14)年10月の政変と自由党結成および1882年立憲改進党結成に至る時期。この時期の特徴は、在地の豪農民権家による地方民会・府県会での活動と地方政社の発展に支えられ、国会開設請願運動が国民的広がりをもつに至る

(1880年(M13)の国会開設請願書署名者は24万人(ここかも)を越える)とともに、立憲政体樹立=国会開設の要求が公租公課軽減や地方自治件の拡張など人民の日常的要求と結び付けられて、自由民権運動が近代民主主義革命運動の正確を明確にしたことである

(民権派の憲法草案、いわゆる私擬憲法の多くは、1880年11月国会期成同盟第2回大会の議に基づいて作成された)。

国会開設運動の高揚は、おりからの北海道開拓史官有物払い下げ事件に対する際民権家の政府批判と相まって政府を危機に追い込み、政府は10年後の国会開設を約束する詔勅を発布するとともに大隈重信一派を閣外に排除して薩長藩閥政権の強化を図った。

それに対し自由党と立憲改進党は国約憲法の制定と国会の早期開設を求めて動き出す。

「激化期」
自由民権の最初の激化事件である1882年(M15)の福島事件から、
1883年(M16)高田事件、
1884年(M17)の秩父事件をピークとする群馬事件(M17.5)
加波山事件(M17)
飯田事件(M17未然発覚)
名古屋事件(M16~17)
等の激化諸事件を経て、1885年(M18)大阪事件、1886年(M19)の静岡事件に至る時期。

県会を無視して道路開発を進める県令三島通庸(みちつね)の横暴に対抗する河野広中(こうのひろなか)ら自由・改進両党は県議による県会での議案毎号否決事件から、

不法な会津地方三方道路開発とその過酷な負担に反対する権利回復同盟の農民数千名の蜂起(喜多方事件)に至る福島事件は、自由党派豪農層の民権運動と農民の公課負担反対闘争とが結び付いた民権運動激化の典型的事件であった。

しかし、集会条例改正(1882年8月.M15)をはじめとする民権運動の弾圧の強化を契機として運動内部に分裂が生じてくる。1884年以降の激化事件には、栃木県庁開庁式に際し政府高官の暗殺を企図した加波山事件のように、過激化した少壮自由党員による少数武力蜂起も含まれ、つぎつぎと鎮圧されたが、

そこには新しい運動の展開があった。とくにそのピークをなす秩父事件は、一部の豪農層と中農層の自由党員が指導し、政府転覆・国会即時開設と貧者救済・財産平均の綱領を掲げて1万人近くの農民が武装蜂起し、一時は地方権力を掌握した事件であり軍隊の出動によって鎮圧された。

その背景には、松方デフレのもとで貧窮化した広範な農民が、借金の据置き・長年賦返済、貢租公課負担軽減および質地変換を求める困民党運動とが結び付いた農民激化の典型的事件であった。

しかし、運動が農民革命的性格を帯びてきたとき、すでに板垣ら自由党首脳は運動から身を引いたが、大井憲太郎ら左派首脳も指導力を失っており、秩父事件が起る2日前、加波山事件の波及を恐れて自由党は解散してしまう。

大井らは朝鮮の改革派支援に運動の突破口を開こうと渡鮮を企てて逮捕される(大阪事件)。

「退潮期」
激化事件が鎮圧されたのち、1886年(M19)に旧自由党・改進両党幹部は藩閥政権伊藤博文内閣に反対する大同団結を図り、翌1887年には井上馨外相の条約改正交渉の失策を機に「言論集会の自由、地租軽減、外交の挽回」を要求する三代事件建白運動が高揚するが、

政府は「保安条例*」を発布して是を弾圧する。1888~1889年には後藤象二郎による大同団結運動が展開されるが、それは来るべき国会開設へ向けての士族・豪農層の参政準備運動にとどまった。

以上のように、民主主義革命運動としての自由民権運動は敗北に終わり、1889年2月(M22
)天皇大権の下に国民の権利を制限する大日本帝国憲法が欽定憲法として発布された。

しかし、自由民権運動が憲法制定=国家開設に果たした役割は大きく、またその思想はその後も地下水のように生き続けた。

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□2度の 1年間全国演説禁止
 
民権運動の最初の激化事件は福島事件(M15.11.12)だった。
11月11日、板垣退助は後藤象二郎と渡欧した。

おなじ11月15日に、音二郎は大須演説をしており(前掲倉田本)、9月にははやくも一回目の全国1年間政治演説の禁止措置を受けた。

音二郎の動向は、翌年には朝野新聞(白川本)、滋賀新報(宮武本)をはじめ、以来大量の記事となっている。自由童子と名のる演説振りは色々と話題を振りまいた。

大須演説から3年目の明治18年2月14日、音二郎は2度目の1年間の全国政治演説禁止措置を受けた。大阪事件(11月23日逮捕)の年である。

□ 演 説

音二郎をはじめ、民権運動の政治演説とはどのようなものだったのだろうか。
初期の演説家は「演舌つかい」といわれ、学校や芝居小屋や寄席などを会場として演説をすると、大衆は講釈師と混同したりした。

「演説」ということば自体が新しいので、文字も定まらない時期があったのである。

■「日本の百年2 わき立つ民論」松本三之介編著。ちくま学芸文庫p38
さて一方では、小さな民権坊やまで生まれていた。高知の田舎の中村町に育った幸徳伝次郎(秋水、1871-11)は、よほど早熟な少年で、自由党成立の1881年(M14)ごろ(10歳頃:補)には、みずから手書きの限定一部の新聞を発行し、社説から三面記事まで書いていたという。…

… 中村町という土地は、自由党の発生地である土佐国にありながら、自由党の地盤ではなく、改進党の勢力範囲であったとのことであるが、自由党の同志をもってみずから許す幼い秋水には、このことがよほど不満であったもののようである。

で、改進党の集会が町で行われる時など、いつも多くのこどもたちを集めては、さかんに示威運動を起こしたということである。

秋水の指揮するこどもの一隊は、自由党とか書いた幾本かの紙の旗を押し立てて、会場近くで声をかぎりに万歳を叫んでは… 」(師岡千代子(秋水の妻)「夫・幸徳秋水の思ひ出」1946年)

■ (p111~。政治演説会には)小学生のみではなく、婦人もみな自由に行ったものだ。現に僕の祖母
のごときは、義太夫や浮かれ節より演説のほうが面白いというて、ほとんど開会ごとに行った。

教員の政談を禁止したり、(略)したのは、明治13年に集会条例というものが出来た後のことで、それまでは絶対的自由自在なもので、警官の臨場などということもむろん知らなかった。この宝永寺(信州松本;補)の演説会で、ぼくらはこういうことを教えられた。

一、 国会を開設して、人民がみな政治に参与せねばならぬこと。
二、 条約を改正して、外国人もみな日本の法律に従うようにせねばならぬこと。

 学校でも自然「国会開設」「条約改正」ということを、さながら流行歌のように口にすることになった。
(木下尚江「神・人間・自由」一九三四年)(『日本の百年2 わき立つ民論』所収)

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民権運動の高まりに驚いた政府は、集会条例(M13.1880)によって、軍人・警官・教育者・学生の演説会立ち入りを禁止した。その後、子ども・女性も禁止した。 

集会条例→M15改正→M00集会及政社法。
讒謗律・新聞出版条例(M8)→保安条例(M20)

福沢諭吉は欧米にならい、自由な発言を提唱して演説を広めたが、諭吉のそれは、当時の高学歴者に限られるものでもあった。同時に「学問のススメ」などにより国民への啓蒙活動を提唱した。

見よう見まねで「スピーチ」を始めたのは明治4年(1874)ころ。5年ごろから訳語の「演説」が使われはじめた。明治6年に結成された「明六社」(森有礼発起の日本初の学術団体。福沢諭吉も参加)などが「公開演説会」(M8)を開いた。

同年、慶応義塾に三田演説館もつくられた。はじめ学術講演のたぐいが多かった。政談演説としては明治明治8年創立の立志社社則に「演説討論会ヲ設置ス」とあるのが元祖かもしれない。政談演説が実際におこなわれるのは明治10年(1877)ごろといわれている。(「わき立つ民論」より)
 
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明六雑誌の目次から

洋字を以て国語を書するの論・西周(1号)、
学問のすゝめ四編学者の職分を論ず・福沢諭吉(2号)
民選設立建言書の法・森有礼(3号)、
人民の自由と土地の気候と互に相関するの論(一)蓑作麟祥(4号)、
出版自由ならんことを望む論・津田真道(5号)、妻妾論・森有礼(8号)、
民選議院の時未だ到らざるの論・神田孝平(19号)、
新聞紙論・津田真道(20号)、女飾の疑・阪谷素(21号)、
夫婦同種の流弊論・加藤弘之(31号)、男女同数論・福沢諭吉(31号)、
妾説の疑・阪谷素(32号)、死刑論・西周(41号)、
廃娼論・津田真道(42号)、転換説・西村茂樹(43号)最終号

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~

音二郎ら民権壮士などをのぞいた大衆、つまりその他大勢の大衆が聴衆を前にして口を開くのは、第二次大戦後だった。大衆は自らの考えをまとめる機会と、口を開く機会をほとんど得ぬまま、口重く長い不自由な時代を経たのち、第二次大戦後にいたってようやく口を開く機会を得た。

「街頭録音」や「素人のど自慢」などのラジオ番組がはじまり、その他大勢の大衆が公的に口を開くことが、形は幼稚ながら実現したのだった。これらの番組は、日本人の民主化の一環として、GHQ(連合国総司令官総司令部)が、強制的指導したものである。

GHQは連合国といっても、実質はアメリカ軍の占領総司令部だった。二度目の黒船来航である。   
137年前の福沢諭吉は、新聞紙条例と讒謗律が公布(明治8年・1875)されると、明治7年に発刊した「明六雑誌」を法律に触れる恐れがあると提言して43号をもって廃刊した。

□音二郎の民権運動 
自由民権運動家の実態を少し探ったところで、音二郎の民権運動について考える。 

松永伍一の音二郎観
松永伍一「川上音二郎 近代劇・破天荒な夜明け」朝日選書は、激化事件のピークである秩父事件のころの音二郎をみてその政治意識を評している。
■ この時期に川上音二郎は緘口令を敷かれて沈黙していいた。「公然政治ヲ講談論議スルコヲ禁止
」されてはいるが、旅をすることは許されていた。にもかかわらず、かれは秩父困民党と関係をもとうとする態度には出なかった。

このことは重要である。……ここに来ると音二郎に「真の政治変革の論理」が欠如している」ことが明瞭になる」p.42 

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つづけて松永本は、音二郎は「博多の『分限者』の伜そのままであり」「その後の『オッペケペー』も目立ちたがり屋の自己宣伝」と断定している。

しかし秩父事件(M17;1884;8月困民党結成、10月31日とも、11月1日武装農民結成とも、2日行動とも。他の日も)に加わらなかったとして、政治意識が欠如していると結論づけるのはいささか性急ではないだろうか。
音二郎の1年間政談禁止は、明治16年9月13日からと、明治18年2月14日からで、秩父事件のときは演説禁止期間ではなかった。(日付に関しては調べなおすこと)

松永本で、「自由党の急進派の大井憲太郎が秩父に遊説にきてから…やがて秩父事件へと発展し軍隊と戦闘を交えるところまで進んでいく」(同書p41)と書く当の大井憲太郎は、日史大・自由党史にあるように、板垣らとともに身を引いている。

争乱の場にはいなかった。秩父事件のみではなく、農民の起こした諸事件のいずれにも大井は与していない。音二郎に関して「ここに来ると音二郎に真の政治変革の論理が欠如している」とするならば、板垣も大井も政治改革の論理は欠如していることになる。

大井は豊後の農民出身であるから(分限者といってもよい)、困窮する農民への視線はあっただろうし、逮捕された農民たちの弁護も代言人(弁護士)として引き受けている。

だが国家主義者の彼には、天皇の軍隊「国軍」に対し、武装闘争をもってするという革命の意図は、少しもなかったはずだ。彼は農民にとって扇動者とはなったが、自身が反乱者であることはなかった。

板垣をはじめとする自由党自体が、勤皇家であって、国家主義である。彼等が攻撃したのは、天皇の意思にそむいて政治を私している政府有司だった。薩長閥の有司専制をのみ言論攻撃したのである。

もともと板垣退助を総理に戴く自由党は、西郷隆盛の西南戦争にも共鳴していない。国内では言論闘争の道を選んだ漸進主義の政治結社である。

板垣は対外的には征韓論の「対外硬」派であったが、征韓論に敗れて下野してからは、政府に対して武力ではなく言論闘争の道をとった。板垣の民権運動は国内における反政府言論闘争であり、大井も、そして音二郎も同じであった。

音二郎は滋賀県内一ヵ年政談禁止(M16.9.13)の措置を受けても、すぐに「滑稽演説会」を開いている。そして拘引されている。滑稽というのは政談ではないという言い逃れの方策である。

また、最初の1ヵ年全国政治演説禁止がとけると、「無法無政党討論会 本月二十五日迄に規約一覧あれ 日本の貧書生を募集す 無法無政党討論研究会 縄手通古門前上る十五番戸 創立事務所取扱所」(M17,9月23日付朝日新聞。井上本p18)という張り紙を京都市中に貼ってまわった。

政談禁止の布令が前年9月13日からなので、禁が解かれて10日目である。松永本でいう緘口令の期間ではなかった。音二郎は音二郎なりの民権運動を繰り広げていた。
音二郎は演説会の収入をすべて米に換え。貧民に施したといわれる(倉田本)。
問題になっている秩父事件とはなんであろうか。
■秩父事件 日史大
1884年(明治17年)11月、埼玉県秩父地方を中心として起こった自由党員と農民の武装蜂起。
横浜開港以降、秩父郡一体は輸出生糸生産地となり、生糸の投機的激動のなかに巻き込まれた。

しかし、大蔵卿松方正義によるデフレ政策は、生糸価格の大暴落を招き、軍備拡大のための大増税は農民を直撃し、大量の生産者群は没落して高利貸しの支配下に置かれた。

1883年末同軍上吉田(かみよしだ)村(現,秩父市上吉田)の中農高岸善吉(たかぎしぜんきち)、下吉田村(現、秩父市下吉田)落合寅市(おちあいとらいち)、坂本宗作の3名は、秩父郡役所に高利貸しの説諭を求める請願を行ったが却下された。

1884年2月自由党常議員大井憲太郎が秩父に遊説、これを機に自由党秩父部が生まれた。高岸、落合らも入党し、秩父自由党と負債返弁闘争が結合する。8月高木氏ら13名による山林集会が開かれ、その中核グループはさらに拡大、農民の組織化が進められた。

その集団を困民党と呼び、農民はこの困民党を自由党と同視し、自由党を世直し政党として意識した。その集会と機を一にし困民党指導部の構築が図られ、大宮郷(秩父市)の田代栄助を盟約運動の首領とし、以後農民の委任状を基にした合法請願活動を展開したが成功せず、10月に入り実力行使の路線を決定した。

十六日蜂起日時が討議され、田代らは1か月の猶予を主張したが農民の切迫した声により退けられ、長野、群馬へも使者が飛んだ。

「要求と結果」
秩父困民党は1884年11月1日、下吉田村椋(むく)神社境内に集結、その数3000名という。総理田代栄助、副総理加藤織平、参謀長菊池貫平、会計長井上伝蔵ほか40余名の郡指導部役割を決め、軍律5か条を制定。

その要求は、(1)負債の10ヵ年据置き40か年賦、(2)小学校の3か年休校を県庁に請願、(3)雑収税の減免を内務省に請願、(4)村費の減少を村役人に迫る、であったが、「徴兵令改正」も叫ばれた。

困民党軍は甲乙2隊に分かれて小鹿野(おがの)(現秩父郡小鹿野町)へ進撃、2日大宮郷に突入し秩父郡役所に本陣を構え、警察、裁判所、戸長役場、高利貸しを次々と襲撃、秩父一帯を支配した。

埼玉県当局は内務卿山県有朋に連絡、山県は憲兵隊を出動させるとともに、参謀本部長として鎮台兵の派兵を天皇に上奏し、その允裁(いんさい)を得て、4日早朝東京鎮台兵を秩父に急派した。

憲兵来るの報に接した困民党軍は、3日大宮郷を離れ皆野(みなの)村(現秩父郡皆野村)に進出したが、4日本陣は解体、困民党軍の一部は埼玉県児玉、長野県南佐久に転戦したが、9日千曲川畦で最後の本陣が壊滅した。

この事件のなかで「圧制変じて良政に」とする思想が湧き出ていたことも注目される。事件後処刑された者は死刑11名(欠席裁判死刑を含む)、懲役刑48名。罰金科料3680名。

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 秩父事件を自由党はどう見ただろうか。
■「自由党史 下」岩波文庫p91
(集結した3000人の困民党は)村上の妻を遣わして大井憲太郎の所に至らしめ、兵を挙ぐるまさに三日の中に在るを報ず。

大井大に驚き、其軽挙事を誤るを慮り、特に部下氏家直國を遣わして…大井の言を以て理ありと為し、各首領を会して其賛否を問ふ。

衆嗷々肯ぜず(ごうごうがえんぜず)。……(衆は氏家の言を聞かず、氏家を殺して軍神にせんとするを聞き、氏家は兵陣射撃を知らずどう戦うか、と進撃、退却、撤兵を教えた。)…

…警報の東京に達せしは、十七年十月三十一日にして、自由党の解党と相距る僅に二日のみ。……集団は素之れ不平の農民、博徒、猟夫の類なるが故に、……実に一種恐るべき社会主義的の性質を帯べるを見る。
      
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文化・教養の異質は悲喜劇を生む。大井憲太郎が有司専制の非道を怒り、国の改革を叫んだとき、聴衆は一揆をもって立ち上がれと説いていると理解したのではなかったか。

博多生れの音二郎が、農民に関心を寄せたエピソードは知らない。音二郎は都市部の貧民へは目を注いでいる。筑前竹槍一揆のとき、川上家が襲撃されたとは聞かないが、基本的に、町の商人と農民は立場が逆である。

町の人間は権力のそばに暮らして、その強さを知っている。また、権力に認可されなければ商売ができない。
音二郎は子供の頃、佐賀の乱・西南戦争に向かう、政府の鎮圧軍を目のあたりにしている。(西南戦争のとき、博多にいたという確証はないが)

かつて博多が一揆を起こしたことはない。明治期に人々が怒って集合したのは、県令が祭の山笠廃止を布告したときくらいである。夜間、かがり火を炊いて神社に集合した博多人は、それでもこぶしを振り上げることはなかった。町の大衆とはそういうものだと思う。

 
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「一種恐るべき社会主義的の性質を帯べるを見る」
板垣退助という元土佐藩上士を、総裁に戴く自由党の性質である。

福沢諭吉が政府の言論弾圧の条例にたいして、明六雑誌をすぐに廃刊したことと、自由党が秩父事件の連座をおそれて解党したのは、同根の対応策である。

平等を説いた二人は武士であり、大衆を理解することはもともと困難だった。

□福沢諭吉の大衆観

福澤諭吉「福翁自伝」に次、のようなエピソードが語られている。(明治32年刊)
■ 私の身分以下の藩士は勿論、町人百姓に向かっても、仮初にも横風に構えてその人々を目下に見下して威張るなどとということは一寸もしたことがない(p175)

■ 私は少年の時から人を呼び捨てにしたことがない。車夫、馬丁、人足、小商人のごとき下等社会の
者は別にして、いやしくも話の出来る人間らしい人に対して無礼な言葉を用いたことはない。(p187)

■ ただの百姓町人に対しても色々試みたことがある。… (家族で遠出をした帰りに)向こうから馬に
乗ってくる百姓があって、私共を見るや否や馬から飛びおりたから、私が咎めて「これ、貴様は何だ」と言って、…

…その百姓が恐そうな顔をして頻りに詫びるから、私が「馬鹿言え、そうじゃない、この馬は貴様の馬だろう」…「自分の馬に自分が乗ったら何だ、馬鹿なことするな、乗って行け」…「乗らなきゃ打撲るぞ…」 … と言って、無理無体に乗せてやりましたが… 古来の習慣は恐ろしいものだ。

この百姓らが教育のないばかりで、物がわからずに法律のあることも知らない。下々の人民がこんなでは仕方がない、と余計なことを案じた事がある。(p230)

 「天は人の上に人をつくらず」と書いた福沢の大衆観である。
 
□勝海舟の大衆観

福沢と同時代に生きた勝海舟の「氷川清話」(講談社学術文庫)は、明治25年から29年の談話の聞き書きである。維新以来の人物伝と当時の時局について語っている。
中にわずかではあるが、市井の人々について語っている部分がある。

■(p156)市井の人物  八尾松の婆も非常な遣り手であったが、松源の婆は、彼に比べると、今一層の手腕家であった。昔はこの種の人間に、よほど傑物があった。青柳のお神などもやはりその一人だ。

勿論高尚な教育のあろう筈はないが、実地に世間の甘い辛いを嘗め尽くして来たゞけあって、なかなか面白いところがある。… 彼らが人を鑑識する能力といひ、その交際の工合といひ、とても今の政治家などの及ぶところではない。(料亭・待合の女将などである)

■(P159)これまでいろいろな人と近付きになったが、新門の辰、薬缶の八、幇間の君太夫、八百松の婆、かういふ連中は一番の友達になった。

■p161)囚徒中の人物  おれの感服した人間が三人ある。… 維新の際におれが放免してやった奴だ。その一人は、馬丁の家の食客(いそうろう)をしながら強盗をやるので、…しかもそのやり方が実にうまいので…その大胆と小心とには、おれも感心した。

今一人は、それも強盗だが、与力や何やの訊問に遭うて、たいていの奴は青くなるのに、この男は平気で、一々答弁する。

そこで、皆のものは多分冤罪だらうと思っていたら、豈図らんや、…さあ縛れ、今から落ち延びても仕方がない。こゝで捕へらるゝのも運だらう。これから仔細を白状するといって、従容として罪に服した。

それから、おれは明治になって、どうせ五十や六十の囚徒を斬ったからとて、盗賊の種が尽きるといふわけではないと思ったから、みな一思いに放免してしまったが、

その時多くの囚徒は安房守様の御蔭で命を拾うたなどと嬉し涙をしたりするのに、この男ばかりは、おれが放免を言ひ渡した時に、へーそうですかといったきり、顔色も変へなかった。

また、一人は、三十歳あまりの女囚だが、… 私の綺麗なのを慕うてか、多くの浮かれ男が寄り付いて参るので、そのうち、金のありそうな奴には、心を許した風を見せ、… これまでにちゃうど五人殺しましたと白状した。実に大胆きわまるではないか。

すべて、こんな奴は、みな生まれつきなので、適宜に教育でもしたなら、それはえらいものになったであらうに、惜しいことには卑賤の身分に生まれ、生涯衣食に追はれて十分に腕を伸ばすことが出来なかったのだ。

しかし、それがため国家とか政治とかいふ小理屈を並べながら、大層な悪事をやらなかったのは、世間のためにはかへって幸だったかも知れないよ。とにかくおれも彼らにはかなはない。

ついでに海舟の人物評から伊東巳代治を見ておこう。
■(p151)伊東巳代治は、利口者サ。おれは、あの親を知って居るが、何でも長崎の乙名*組(おとなぐみ)の組下ぐらいであったよ。その倅にしてはよく出世したものサ。

だが、仕方のない事にはまだ幅がない。利口ばかりでは国は治らない。信玄が生きて居る間は、流石の信長でも黙って居たのに、一朝信玄が死んで勝頼の時代になると、ぢきにあの始末サ。しかし勝頼は決して馬鹿ではないよ。

それに左右には元老も沢山居たのだけれど、国はやッぱり亡びたヨ。巳代治もまだまだ政治家にはなれないのサ。  
 
*乙名…町役人。海舟は、伊藤博文の懐刀であった伊東巳代治を徹底して嫌っていた。伊藤巳代治は第二次伊藤内閣書記官長、第三次伊藤内閣農商務大臣。

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□ 音二郎の教養

農民騒擾事件にたいする自由党本体の動きをみれば、音二郎が農民の動きに同調しなかったという理由から、音二郎の政治姿勢を全否定することはできないはずである。自由党も音二郎も政府は攻撃するが、天皇を頂点とする日本国を攻撃してはいない。

敵は薩長閥の有司専制である。自由民権論者の大半は勤皇派であり、国家主義だった。大井は農民出身だが国家主義者である。

音二郎は町人出身で、私塾から小学校下等科にすすんで卒業したということは「少年期」で確認した。教養の程度からいえば低いといわざるをえない。民権思想は肌で覚えたと考えるのが妥当だろう。

そして士族主導の、あるいは高学歴者の自由党に違和感をおぼえたのではないだろうか。しかし、その他大勢の大衆の中にあって、「分限者」(松永本)といわれる御用商人の家に育った音二郎には、かなりの理解力、探究心、上昇志向といったものが備わっていたと考えていいだろう。

のちに川上一が座員を募集したときの応募要項には、新聞評論の類を読めること、という規定があった。


                 以下続く   ~120728


川上音二郎と貞奴ー少年期

「川上音二郎と貞奴 ――町人から平民・国民へ、そして国際人へ」      
                                         長谷川法世

本稿は、「川上音二郎発見伝」より先に書いていたものですが、未完成です。

「発見伝」は本稿を元に、膨らませていたのですが、第一部を書き終えたところで、別の仕事が忙しくしばらく中断することになりました。

それで、代替にこの「川上音二郎と貞奴」をご披露する事にしました。
推敲もまだ終わっていないのですが、第一部より少し先まで書いているので、よろしければ読んでみてください。

ただし、区切る暇がなくて全文が長いですし、発見伝と重複する部分があるので、同じような個所は飛ばして読んでください。

   
本稿は2011年秋から書き始めていたもので、本稿・少年期・青年期(1)までです。
  
 「川上音二郎発見伝」は、「川上音二郎と貞奴」をもとにして、より正確を期したものですが、どちらもまだ、完全ではありません。

今年が生誕150年なので、早いうちに「音貞」を知って欲しいためです。
  
最初のうちは、けっこう重複しています。
  
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はじめに 

本稿は、川上音二郎、貞奴(さだやっこ)の生涯を「大衆の中の個」として探る試論である。
音二郎は自由民権運動の壮士から新俳優へ、貞奴は葭町一の芸妓から日本初の女優となった。ふたりは明治中期から後期にかけて日本を、世界を駆け巡り一時代を画した。

しかし、彼等についての伝記評伝は、ともすれば新時代の徒花・際物のように書かれたものが多い。彼らは、明治という歴史の大河の河原に仮小屋を張り、つかの間、存在を示したものの、奔流に押し流されてしまったかのようである。

ここで再び彼らを歴史の流れから掬いあげることは無駄であろうか。彼らは同時代の大衆とおなじように、町人として生まれ、平民となり、さらに国民としての自覚をもつにいたったはずだ。ふたりは明治の大衆のサンプルとして適さないだろうか。

二人が、明治という新時代をいかに受容したか、または受容させられたかという観点からみれば、彼らの突出した行動が理解できるのではないだろうか。そうした検証は、少なくとも此二人に関しては、これまなされてはいないと思われる。

検証作業の資料としては、二人とも公的な記録が皆無にちかいことから、多数の伝記・評伝などを基本とせざるをえない。自伝もあるが、聞き書きのみである。自筆のものは書状、葉書など多くはない。手元にもない。

しかし、膨大な新聞・雑誌の記事、劇評、そして演劇史による評価がある。そのすべてを検証する必要があるのだが、現時点では入手できる資料に頼るほかない。そのほか両者それぞれを主人公とした小説もあるが、脚色があるのでこれは資料として用いない。


歴史の教科書に彼等はほとんど無縁である。かろうじて音二郎のオッペケペー節の錦絵が、自由民権運動の項のかたすみに紹介されるくらいだろう。
教科書が取り上げる「個」は、歴史を大きく動かしたり、あるジャンルを代表するような、また変革進歩させたような人物群に限られる。

明治時代に限定しても、社会上層では維新の元勲、政府や官僚、在野の知識層、民権運動首脳。下層では反乱を起こした人物、一揆を起こした農民が紹介される。劣悪な環境下の労働者群についてももちろん記述する。
二人は大衆、つまりその他大勢のなかに含まれ、個としての注目に値しない存在のようである。

音二郎は民権演説家として世にあらわれ、芸人として鑑札を受け、新俳優となって国内を席巻し、且つ世界を巡演し、「正劇」と称してシェ-クスピアをはじめとする西洋演劇をつぎつぎと日本に持ち込んだ。

貞奴は芸者として政治家財界人らの寵愛を受け、書生演劇の俳優音二郎と結婚し、女優となって世界に賞賛されたのち、夫の死後は実業家福沢桃介のパートナー、つまり妾となった。


ひとつのジャンルにおさまることなく生きた彼らについて、教科書は一般に無視という方法を選択しているようだ。なぜか。

それは彼らが、演劇史では多く、「明治期の一代限り」の「大衆芸能者」としてあつかわれ、また、貞奴が芸者・妾という「下世話な存在」であったことによると思われる。教科書が「大衆の個々」をとりあげない理由の重要な部分でもある。

実際の彼等は、大衆であって大衆ではなかった。つまり「個」であった。大衆の範疇におさまらない人生を歩んだ。それもまた、歴史への登場を拒まれる理由なのだろう。大衆とは、迫害される多数、むしろ旗をあげる多数、鎮圧される多数でありその他大勢である。

多数の代表者である個は歴史への登場切符を手にする。歴史は時代を動かした個に焦点を合わせ、時代の動きに従う多を、その他大勢としてブロックのままピックアップする。

ふたりはカンダタのように大衆の中で蜘蛛の糸をつかむことができたのだったが、歴史のピンセットは彼等を振り落とす。


ふたりの立ち位置は、とりとめなくつぎつぎと変化したように見える。しかし、鳥瞰してみると、川上音二郎は終生自由民権家であり、貞奴は芸者であったという単純な姿があらわれてくるのではないだろうか。
それがたぶん本稿の結論となるであろう。それは彼等が大衆であって大衆から一歩抜きんでた行動をとり、しかし大衆として生きた、という結論でもあろう。


ところで大衆は、為政者にとってしばしば度し難い手のかかる存在である。ちょっと眼を離せば、てんで勝手なことをしはじめるものだ。大衆とは何か。一言でいえば「自由」である。

「個人自ら得る所の自由と、社会団結の力によりて得る所の自由とあり。一は発して遠心力となり、一は発して求心力となる。政治の要は人をしてこの二力抱合の程度を謬らざらしむるに在り」

と、板垣退助が「自由党史」の題言でいう、「個人自ら得る所の」「遠心力」となる無知無教養の「自由」である。

音二郎と貞奴は、四民平等という「明治の自由」を得て、大衆の中から名をあげ、大衆として死んだ。歴史はふたりを大衆という二文字のファイルボックスにしまいこんで錠を下ろしている。

*貞奴の本名は小山(おやま)貞,あるいは貞子。貞奴とは日本初の女優としてデビューするとき、本名の貞と芸者名の奴をあわせた芸名。本稿では半玉小奴・芸者奴を特定する場合をのぞき、おおむね貞奴でとおす。


1.町人として ――明治の子、音二郎・貞奴

川上音二郎は博多という地方の商人の子、つまり町人として生まれた。妻となる貞奴は、開明間もない日本の中心・東京に生まれ、江戸の町人文化色の濃い環境で育った。
二人は「町人」として生まれ育ち、明治国家では「平民」として登録され、かつ「国民」へと成長していく。

二人の人生は、時代をリードする為政者たちの目的にかなっただろうか。あるいはその目的を越え、あるいは逸脱したのだろうか。


音二郎は元治元年(文久4・1864)1月1日生まれ。明治まであと4年という江戸時代末期である。貞奴は明治4年(1871)7月18日生まれで、ふたりは7歳の差がある。繰り返すが、新時代に生を受けたこの二人の人生を追うことは、「江戸から明治にかけての大衆」が、文明開化をどのように受容したかを知ることでもある。


□幕末明治の大衆

幕末から明治にかけての日本人大衆は、どういう生き方をしていたか。来日した外国人たち、つまり外交官・お雇い外国人・探検家・記者たちは、江戸・明治の庶民について多くの記録を残している。
それらを一覧するのにつぎの好著がある。

■渡辺京二「逝きし世の面影」平凡社ライブラリーわ-2-1  
         ;当書の引用に当たってはPCの文字変換にまかせています。

ヒュースケン(オランダ人の駐日アメリカ公使館通訳官。幕末)
―今や私が愛しさを覚え始めている国よ。この進歩は本当にお前のための文明であるのか。…この国の人々の質朴な習俗とともに、その飾り気の無さを私は賛美する。

…いたるところに満ちている子供達の愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見出すことができなかった私は、おお、神よ、この情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ちこもうとしているように思われてならない。 p14
チェンバレン(英人言語学者。明治6年来日東大で講じた。)
―古い日本は妖精の棲む小さくてかわいらしい不思議な国であった。
オズボーン()―警吏は我々の礼節の感覚に反するような絵が店さきに置かれていないかと、鋭く目を配っており、彼が近づくとそういった絵は魔法のように消え去る。

それでも彼の目にすべてが入るわけではないので、男女や子供達の真ただ中に、猥褻きわまりない種類の図や模型が気づかれずにぶら下がっているのを見て、われわれは仰天する……五時、全てのものが湯を使っていた。“清潔第一、つつしみは二の次”というのが彼等のモットーであるらしい。

……桶が一階の部屋(おそらく土間)に置かれている場合もあったが、なにしろ戸は開けっ放しなので、美しきイヴたちが浴槽から踏み出し、たぶん湯気を立てて泣きわめいている赤子を前に抱いて、われわれを見ようと駆け出してくる…。

ブスケ(お雇い外国人。明治初期司法省がはじめて雇用)
―(猟や散策で疲れて立ち寄った農家で休息し、茶菓のもてなしを受けたあと)彼等にサービスの代価を受け取らせるのに苦労した…この性質たるや素朴で、人づきが良く、無骨ではあるが親切であり、その中に民族の暖かい気持が流れている。

モース(米動物学者。明治10年から2年間東大で生物学を教えた。大森貝塚を発見)
―他国民を研究するにあたっては、もし可能ならば無色のレンズをとおして観察するようにしなくてはならない。…せめて、眼鏡の色はばら色でありたい

…私はたぶん、ばら色の眼鏡をとおして事物を見るという誤謬を犯しているのかもしれないが、かりにそうだったとしても、釈明したいことは何一つない。(「日本人の家とその周辺」の序言1886)

ハリス(米外交官。初代駐日総領事、のち公使)
―(下田近郊の姉崎で)小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度は丁寧である。世界であらゆる国で貧乏にいつもつき物になっている不潔さという物が少しもみられない。(下田着任直後)

オールコック(英外交官。中国各地の領事ののち日本駐在の総領事、初代公使。幕末)
―封建領主の圧制的な支配で全労働者階級が苦労し呻吟させられている抑圧については、かねてから多くの事を聞いている。

だが、これらの良く耕作された谷間を横切って、非常な豊かさのなかで所帯を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きの良さそうな住民を見ていると、これが圧制に苦しみ、過酷な税金を取り立てられて窮乏している土地だとはとても信じ難い。

むしろ反対に、ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らしむきのよい農民はいないし、またこれほど温和で贈り物の豊富な風土はどこにもないという印象を抱かざるを得なかった

ボーヴォワル()
―その住民全ての丁重さと愛想のよさにどんなに驚かされたか…地球上もっとも礼儀正しい民族であることは確かだ。

■ペリー「ペリー提督日本遠征記」(岩波文庫版あり)
婦人は伴侶として認められており、単に奴隷として取り扱われていない。…一夫多妻制が存在しないという事実はすべての東洋諸国中もっとも道徳的で洗練された国民

……既婚夫人のいやらしい黒い歯(お歯黒:補)をのぞけば……彼等(女性達)が比較的尊敬されているところからでてくる一種の権威の意識からきている。
(通史と資料「日本現代女性史」阿部恒久・佐藤能丸 芙蓉書房出版より。以下略「日現女」)


□出 生

音二郎は博多の「町人」として生まれ、万行寺(現博多区祇園)の檀家として過去帳に記入されたはずである。7歳になると、戸籍法(明治4年4月4日壬申戸籍)が公布され、施行されると「平民」として役場に届けられたはずだ。同年7月18日生まれの貞奴は、音二郎と同時に平民となったわけである。

貞奴は十二人兄弟の末子、結婚前は小山貞(おやまさだ)といった。父は横浜在小山村出身で武家ではなかったと推測される。名字を母方の小熊(おぐま)姓ではないかという本もある。祖父が与力だったので、父は婿入りしたのかもしれない。

それならば「士族」の届けとなる。この出自に関しての考察は、貞奴の発言を分析するうえで有効なてがかりとなる。

二人はともに四民平等というスローガンのもとで育った。
音二郎は、日本初の近代的教育制度である「学制」の公布によって創設された小学校で教育を受けている。

貞奴は7歳年下の明治っ子であるが、芸妓置屋を経営する浜田可免(かめ)の養女となり、小学校へは通わず寺子屋風の私塾で勉強したといわれる。新教育には触れていない。それでもつぎつぎと吹きつける明治の新風―時として嵐、時として微風―にさらされることにかわりはない。

音二郎が生まれた年は、池田屋騒動、禁門の変、第1次長州戦争、下関戦争など風雲急を告げる元治元年(1864)の1月1日といわれる。元日生まれあるいは元旦生まれであると、本により異なる。

生家は、筑前博多中対馬小路(なかつましょうじ)36番地。博多湾がすぐ目の前にある。日本最古の国際交易港として遣唐使船・唐船が往来した港町である。のちに音二郎が上京し、あるいは海外に出たりしたのは、この土地の風土によるものかもしれない。対馬小路とは秀吉の時代、対馬藩の飛び地として倉屋敷があり、それが町名の由来となった。上・中・下(かみ・なか・しも)の3町にわかれている。

音二郎が2歳となった慶応2年(1866)の「博多店運上帳」によれば、祖父弥作が藍染・砂糖問屋を、父専蔵が石炭卸・船問屋を営んでいた(櫛田神社蔵。下記井上本所収)。川上家は福岡藩の御用商人だったといわれている。
音二郎はどのような幼少期を過ごしたのだろうか。


■井上精三「川上音二郎の生涯」葦書房
……(生家は)明治になって川上姓を名のる*。音二郎は弥作の孫、専蔵の二男。専蔵は芸事にこって商売は熱心ではなかったらしい。

…歌舞伎役者をひいきにして、鼓がうまいので、博多にわか鬼若組(御仁和加組の洒落;補)のはやし方に加わったり、時には舞台に上がってにわかも演じたという。商売に熱がなく、そのうえ藩が倒壊した時に御用商人だっただけに痛手もひどく、家運も次第に傾いた。

14歳(数え;補)になった時、母*が死んで後妻が来た。明治十年の西南戦争で、博多は兵站地としてごったがえしている時である。…かねてから勝手知った商海*の段平船の積荷の陰に隠れ、うまく大阪通いの汽船にもぐりこんで、博多を離れていった。

…(途中で見つかったが)船長が父専蔵と懇意な人だったので…大阪まで連れて行かれた。…船が大阪安治川口に着いた…宿を飛び出し…東京へと目指し旅立った。 

  
          *実母はヒサ *商海…船寄せ・船だまり

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子供のころのエピソードとして伝聞が次の本にある。

■江頭光「博多 川上音二郎」西日本新聞社
はっきり言えるのは、彼が、「わるそう」並外れた腕白小僧、がき大将だったことである。古老の小田部博美(一八八八-一九六一・「博多風土記」著者)から、短いがこんな言葉を聞いたことがある。

「音二郎はわるそうたい。遊びに夢中、おっかさんの目ば(を)盗もうと、藍玉の俵ばかぶって庭先ば駆け抜けたこともあるげなたい」

これですべてが推察される。夏なら清流・博多川で、そのころは銀鱗をきらめかせた鮎のつかみ捕り
、冬なら「さんぎょうし」(竹馬)遊び。屋根より高いそれに、がき大将はひらりと跳び乗り、仲間たちをみおろし言った。「東京の見ゆるばい」

 町内の幼なじみに岩崎元二郎(一八六六-一九四六年・建設業)、石橋源二郎(一八六九-一九四七、酒造業)がいた。交わりは終生続く。


          ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


音二郎を追う場合、政治演説で新聞に登場する以前については、佐々木慈寛が作成した年表や、
井上本(s60刊)、江頭本(h8)に頼るほかない。すでに故人となった三人は、博多在住だったので信憑性は高いのだが、いずれも出典がほとんど記載されていないのが残念である。

音二郎は家庭にあっては父が芸事好きで家業に身を入れない。母は父のようになるな、大きな男になれといって、英雄豪傑譚を話して聞かせたという(井上本・江頭本)。また、父専蔵は前記のように、博多仁和加の鬼若組、それから竹本組にはいり、観世流の鼓の名手と記されている(←「博多にわか」の本)。

音二郎は、明治10年西南戦争の年に、故郷博多を出奔したといわれる。東京に出た音二郎は、芝増上寺の小僧・慶応義塾の塾僕(用務員兼無費塾生)・裁判所給仕などを経歴したとされるが、詳しくはのちにゆずるとして、いまは教育を受けている時期の音二郎を、「四民平等」と「学制」という明治初年の施策から探ってみよう。
それは同世代共通の体験である。 


□四民平等

■日本歴史大事典(以下、日史大と略記)・小学館
明治維新後、政府が士農工商という封建的身分制度を廃止し、平等にするとうたった言葉。しかし、四民(士農工商)平等という法令が発布されたことはない。

新政権は1869年(明治2)の版籍奉還とともに複雑であった封建的階級制度を華族*・士族・卒および平民に分け、1872年(m5)には卒を廃止して3種に整理した。他方、平民には1870年(m3)に苗字を名乗ることを許し、翌年には乗馬や羽織の着用を許可し、また被差別部落の呼称を廃し、華士族・平民間の養子縁組も認めた。

しかし、華士族には家禄が保証され、また刑罰上では閏刑(じゅんけい)という特権が与えられていた。だから、政府による四民平等化の措置は、天皇という絶対権力者の前ではすべての人民は平等ということであり、実質的には不平等を維持したままであった。自由民権運動は実質的な四民平等を実現しようとした。         
 
    *華族……はじめ旧公卿と大名の家系、のちに維新功労者、また実業家も加えられて、
     公・侯・伯・子・男という爵位制度もつくられた。四民平等のはずの明治に、特権階級が制度として誕生したことになる。


□ 学制

■ 広辞苑;岩波書店(以下,広と略記)
……1872年(明治5)に制定された日本で最初の近代学校制度に関する規定。欧米の学校制度を参考とし、全国を大学区・中学区・小学区に分け、各学区に大学校・中学校・小学校を設置することを計画したが、計画通りには実施されず、79年(明治12)教育令の制定により廃止。                               

■ 日史大
……日本最初の近代的学校教育法規。1871(M4)7月の文部省設置後、文部卿大木喬任(おおきたかとう)の下、欧州先進国をモデルとする学校教育制度の確立に着手、フランスの教育行政組織、アメリカの学校体系、教育内容などにならい、1872年3月に草案作成、同年8月3日に公布された。

その理念は同年8月2日の太政官布告に明らかであるが、ここでは封建的教学が否定され、立身出世、治産昌業の個人主義的、功利主義的(最大多数の最大幸福;補)な教育目的、国民皆学の理想が掲げられていた。全体で6編109章からなり、学区、学校、教員、生徒および試業、海外留学生規則、貸費生規則、さらに専門学校に関する規定や学科準則などが追加され、全文213章となった。

学制によって、全国が8大学区、32中学区、210小学区に区分され、それぞれ8大学、256中学校、5万3760の小学校が設立される計画であった。教育行政については文部省を頂点として、大学区に督学局、中学区に学区取締を置き、中央集権制を確立し、学校経営は授業科と学区住民の負担によることを原則とした。

ここに、日本の近代的教育は初めて出発し、学校体系の礎石も据えられた。さらには文明開化が全国に浸透する、その基盤が整備されたといえる。
しかし、政府部内にはあまりにも性急な近代化路線に対する反発があり、また民衆の間には、日常生活からかけ離れた教科書や国民的知識の導入、経費負担への抵抗もあって、十分な社会的定着ををみないままに、1879年(M12)9月より漸進的な教育令に取って代えられた。

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近代学校制度を一気に普及させようとした学制は、学校設置や教育費など地元負担が重かった。徴兵制・地租改定など他の理由とあいまって、各地で農民一揆が起こる要因ともなった。

学制の成立経緯を江藤新平の評伝はつぎのように書いていている。

■毛利敏彦「江藤新平」中公新書p117
……(文部大輔*となった)江藤は、文部省務の大綱を定め、従来からの管轄下諸学校の管理運営のほかに、「全国の人民を教育して其の道を得せしむるの責に任ずる」ことを新たに職務に加えた。すなわち、国家が全国民の教育に積極的に責任を負う方針を初めて明示したのである。

前前年の明治二年、江藤が指導した佐賀藩政改革の方針書「民生仕組書」(みんせいしくみしょ)中に、「村中の子供男女、筆算の稽古は是非致すべく仕組みを立つべし」との規定があり…今度は文部行政の最高責任者となって、その理想を日本全国に拡げようとしたのである。

国家による国民教育実施の方針は、後任者の文部卿大木喬任のもとで、「学制」(明治五年八月二日公布)として体系化された。いうまでもなく、大木は江藤の佐賀藩以来の盟友である。「学制」の趣旨を説明した有名な「被仰出書」(おおせいだされがき)には、

「学問は身を立るの財本とも云うべきものにして、人たるもの誰か学ばずして可ならんや」

と、個人の自立に不可欠な学問の効用が力説され…そして、学制の種を蒔いたのは江藤であった。加藤**は語っている。「[学制]の其の因って起る所は即ち江藤の果断にあるであろうと思う。
……学制の出来た元の因って起る所を考えて見ると、実に江藤の力与って大なるものであろうと私は思う」と。


*文部大輔…もんぶだいふ(ぶ);最高位の文部卿の下。このとき文部卿は不在なので江藤が最高位だった。
**加藤弘之…江藤が文部大丞(だいじょう)に任命。のち初代東京大学総理(学長)
★江藤新平の文部省在職はわずか17日間で、司法卿として転出した。


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江藤・大木の手になる学制は理想的であったが、とりあえず現実的に可能であったのは、小学校を
全国に設置することであり、教科書をはじめ教育内容はたちおくれた。

教員養成のための師範学校も学制の公布によって設立され、小学校の開設に1年ほど先行しただけの慌ただしさだった。
上級学校も札幌農学校のクラーク博士など「お雇い外国人」によって教育を受けた第一期性が卒業すると、彼等がすぐに後輩を指導した。
文明開化は突貫工事で進んだ。


□音二郎の学歴 

 音二郎の学歴および生涯の概略は、「川上音二郎君之像」の撰文によって知ることができる。東京・谷中霊園の碑地(ひち)に建つ銅像は、没後2年目の大正2年6月、高輪泉岳寺に建てられ、翌年谷中に移された。

昭和17年に貞奴が東京府第1号として金属供出し、本体は鋳潰されて兵器になったが、台座は今も残っている。御影石の円筒形で、背面に撰文が彫り込まれている。

■ 銅像撰文
「川上君諱音二郎号灌水専蔵君之子筑前博多人也以元治元年正月元日生幼而頴悟始学於神港学校後入福岡中学不卒業而退維時自由民権論風動一世君概然求交於天下志士痛論時事眼無王侯為官所忌下獄前後経二十八次既而忽有所悟身入梨園創開新劇名声嘖嘖君更欲研究海外之演劇先航于仏国継遊欧米二次其演技仏国也大統領讃賞不置賜以文部金賞……」
従二位勲一等子爵金子堅太郎 正三位勲一等子爵栗野慎一郎同撰
建設者 新派俳優惣代 藤沢浅二郎・高田實・伊井蓉峯・松竹合名社白井松治郎・大谷竹次郎
設計監督 清水建築工務所

碑誌撰文の二人は、もと福岡藩士で、同郷の音二郎に何度も便宜を図っている。金子堅太郎はハーバード大で法律を勉強し、伊藤博文の下で明治憲法草案をつくった3人の一人。音二郎貞奴の媒酌もつとめたという。

栗野慎一郎もハーバードに学んだ外交官で、川上一座がパリ万国博に登場するとき、駐仏公使だった。夫人の英子は博多中石堂の豪商奥村伊右衛門の長女(江頭本)で、夫婦で音二郎たちの面倒を見た。 

碑誌は故人の顕彰が目的なので業績を高評価するものが多く、慎重に読む必要がある。280字の撰文には明らかなまちがいもある。「神港学校」というのは「袖港―」が正しい。
東京の石工が博多の別称「袖の湊」を知らず、原文の袖の字を神と見間違えた単純ミスであろう。ほかにも誤謬はいくつかあるのだが、音二郎の経歴にしたがっておいおい明らかになる。

撰文によれば、音二郎は袖港小学校に入学、卒業したことになる。伝記には入学・卒業の年度を明示したものはない。
江頭本では、同時開校した4校のいずれに入学したか不明としている。袖港小学校は学制が公布された翌明治6年の設立である。翌7年には行町小と合併して「妙楽寺小学校」と改名された。
★小学校の変遷については、「博多小10周年記念誌」による

音二郎が袖港小にすんなり入学したとすれば、明治6年のうちだろう。すんなりというのは、学校設立費や授業料の問題で、全国的に初期の就学率は低かったから、ようすをみて途中入学したという可能性があるからである。

また音二郎は満9歳だった。何年生に入学しただろう。学校ができる前は、商家の子として私塾(寺子屋か)に通っていた(江頭本)。

寺子屋制度*が親の世代には浸透していたので、新政府がいきなり義務教育化をもちだして小学校をつくれ、子供を通わせろといっても抵抗感が強かった。

しかし、家業が傾いていたとはいえ、祖父弥作が町年寄をしていた家柄であるから、博多で小学校をつくるとなったら、真っ先に資金も拠出しただろうし、音二郎をすぐに入学させたという可能性も高い。


□尋常小学校

学制の尋常小学校は下等4年・上等4年の8年制であった。満6歳で入学し、下等は10歳、上等は14歳の年に卒業である。小学校は下等・上等それぞれ8級あって、全16級にわかれている。半年ごとに下等8回、上等8回の試験があった。

あとに引用する「日本の百年 2」には、9歳で1年生に入学する話がある。9歳の音二郎も新しい教育制度の下で、1年生から勉強したと思われる。寺子屋での下地があったとしても、教科書がちがう。試験には新知識でのぞまねばならない。

9歳で1年生に入学し、半年に1回、全8回ずつのテストをストレートにクリアしたとして、下等は12歳、上等は16歳までかかる。音二郎は13歳で家出しているので、小学校は下等科を卒業したことになる。

ただ、小学校のはじめは、寺子屋の師匠がそのまま先生になったり、教科書も全国統一ではなかったので、初期の入学者の卒業にはいろんな裁量があったことは充分考えられる。

くりかえすが、学制で定められた就業年齢は、小学校下等科6歳―10歳。上等科10歳―14歳である。さらに、中学校も下等上等にわかれている。中学下等科は14歳―17歳。上等科17歳-20歳であった。

小学校下等科を12歳いっぱい学んで13歳の年に出卒業した音二郎が、中学下等科に入るには、14歳まで1年間待たなければならない。

学校にこだわるのは、音二郎の教養を知るためである。音二郎がのちにかかわる自由民権運動や演劇の理論を、どの程度理解できたかを推量するには、彼の教養の度合いを知る必要がある。


 *寺子屋
… 寺子屋では入学卒業を登山下山という。寺院が寺子を預かって教育したことによる。入学ということばもあった。数えの7歳で登山、12歳で下山というのが一般的だったようだ。寺子は江戸末には筆子といった。檀家制度で寺院と住民の結びつきは強かった。

成人すると二文字の法名に変える(祖父弥作の茂満)のも、一生つづく寺院との関係による。寺子屋師匠も一生関係は続いた。師匠は僧侶に限らず浪人や医師、篤農家、町人、女性もいた。幕末には浪人は激減した。維新の戦で兵士が必要となり、諸藩が浪人を新規に召し抱えたからである。教授法はほぼ

同じだった。全国的に寺子屋ネットワークができており、木版刷りの教科書があって、師匠が子ども一人一人の学力に応じて手本を書いた。師匠が亡くなると子弟が費用を持ち寄って筆子塚とよばれる墓碑を建てることも多かった。(以上、高橋敏「江戸の教育力」ちくま文庫692より)。

明治政府は国家神道体制を推進するにあたって、檀家制度から氏子制度への転換を図った。子どもが生まれると、寺院ではなく神社に届出を出すよう制度化しようとしたが、抵抗があってうまくいかなかった。(安丸良夫「神々の明治維新」岩波新書103より)


□福岡中学

銅像撰文によれば、袖港小学校を卒業後、音二郎は「福岡中学」に入学し、卒業はせず退学したという。
「福岡県立福岡中学校」は明治12年に開校している。音二郎は西南戦争の年(m10年)13歳で上京し、1~2年後に博多へ帰ったことになっている。帰郷の年ははっきりしない。福岡中学に入学するのは、中学下等科入学年齢の14歳である。当然帰郷してのことになる。

音二郎の諸本年譜では12年と13年が空白である。14年には博多で巡査になっている。中学の開校年度が明治12年であるから、12年と13年のあいだに福岡中学の下等科に入学したことになる。明治12年入学なら音二郎は15歳になっていて、下等科の入学年齢14歳を越えている。

小学校でも中学校でも年下の生徒といっしょに勉強するのは心理的にどうだったろうか。(このころ、新学期は9月かも。要確認)以上、音二郎の教育環境は、小学校と中学校の入学に関していえば、就学年齢からして変則的だったことがわかった。 

さて、福岡中学を退学した原因はいくつか推測される。
① 年下と勉強するのがいやだった 
② 授業について行けなかった 
③ 士族の子弟が多いので平民の音二郎はそりが合わなかった
④ 実家の没落で授業料の支払いが困難になった 
⑤ 上京して実社会を知った音二郎が、教室での勉強に不満を感じた、などである。
⑥ さらに、福岡中学への入学はまったくのフィクションであり、撰文を書いた金子堅太郎・栗野慎一
郎の温情であったかもしれない。

いや、温情ではなく、子爵がふたりもそろって無教養の平民の銅像撰文に名を連ねるのは、いかにも体裁が悪いので、中学入学として高学歴を装ったのかもしれない。


* 福岡中学は明治11年5月7日福岡師範学校附属変則中学として開校、翌12年2月5日福岡
区大名町に福岡県立福岡中学校として設置された。

その後明治22年県立修猷館中学の開校により閉校した。(「福岡県教育百年史 第7巻年表・統計編」;昭和55p25,27。および、伊藤長玄「校史・その淵源を求めて」福高80年史)



なぜ音二郎の学校生活が明確でないのかといえば、記録が残っていないからである。
袖港小学校は開校の翌年、合併改名されて妙楽寺小学校となった。25年には妙楽寺尋常小学校となり女子も収容する。さらに奈良屋尋常小(m31年)となって、昭和19年(1945)6月19日の福岡大空襲で外壁を残し焼けてしまった。博多の3分の2以上も焦土と化した。

生家は人手に渡っていた。音二郎の公的記録も私的記録もほぼすべてが失われてしまったようで、いまのところ音二郎の学校生活について公的に語る伝記はまったくない。

いずれにしろ、音二郎は明治14年(17歳)には博多で巡査になり、翌年には京都で巡査になったという。つまり就職した。博多から京都に移ったのは、家の没落で就職したのを博多の人に見られたくなかったのかもしれない。
つづいてすぐに民権運動の壮士となる。怒涛の生涯が始まるのである。


□貞奴の幼少期

次に、音二郎と7歳違う、貞奴の幼少期を見てみよう。

貞奴は7歳(あるいは4歳)のとき、東京・葭町(よしちょう。茅町とも書く)の芸者置屋の女将、浜田可免の養女となった。近くの有馬小学校には通わずに、寺子屋風の私塾へ通ったという(童門冬二「川上貞奴 物語と史跡をたずねて」成美堂出版p21)。

芸者になるべく、三味線や踊りはもちろん読み書きそろばんから、和歌俳句まで学んだはずだ。残された自筆の文字は達筆である。芸妓になったとき「奴」という葭町一の芸者の名をもらったというから、芸者としての一流の教養は身につけている。

また、江戸時代の日本橋・赤坂・本郷などでは女子のほうが識字率は高かったというので、それも参考になるだろう(ネット 日本の識字率)。

幼少時について寡黙な音二郎に比べ、貞奴は新聞や雑誌の取材によく答えている。

■「貞奴の身の上話し」九州新聞;熊本市;1913.5.10→レズリー・ダウナー「マダム貞奴 世界に舞った芸者」集英社p.21~所収
母方の祖父は日本橋に住んで天下の与力を勤めて多少は顔前(かおまえ)も世間に知られていたそうですから、三代続かねば江戸っ子でないという筆法からすれば、私もまぁ江戸っ子の部類でしょう。

父は横浜在小山村(おやまむら)の生まれで、私の母とは東京へ出てから一緒になったものです。私の兄弟は十二人で、私はその末子に生まれました

……家は日本橋で、今の日本銀行のあるところで相当の暮らしを立てていましたので、私の姉なんかは多少は身分のある人に嫁いでいたのです。
ところが……(家業が傾いて貞奴は一度他家へ出されたのち)7歳の年に葭町の濱田屋に養女にやられました」

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上記、母方の祖父が与力であったということが、話の最初であることに注目したい。与力には先手与力250騎と町与力50騎があった。町与力なら200石取りともいう。なかなかの家柄ということがわかる。

幕臣である与力の祖父を、横浜在の父より先に出し、三代続かねばという江戸っ子の血筋を語るところに貞奴の誇りと見栄が垣間見える。


音二郎は袖港小学校で、また貞奴は寺子屋風の私塾でどのような教育を受けたのだろう。
国民皆教育・男女平等教育を目指した江藤新平の学制の下、現場の教育環境はどういうものだったろうか。

音二郎の教育関係史料が空襲で失われたいま、他の史料によって創成期の教育現場のようすを傍証とするしかない。

まず、古くからある寺子屋についてみてみよう。音二郎は小学校の前は私塾、貞奴ははじめから私塾に通ったと書かれている。これは寺子屋のことであろう。
学制によって開校した小学校が、それまでとどのように異なるのかを知るためには、江戸時代の大衆教育も知らなければならない。


■高橋敏「江戸の教育力」ちくま新書692 p20
…文書による契約が社会の原則となったのである。読み書き算用を習得しなければ大変な不利益を蒙ることになる。十九世紀に入ると教育熱は一気に高まり、寺子屋が全国に誕生する。寺子屋は私立でお上の認可はいらないし、お上も直接関知しない。

…身分に関係なく誰もが開業できた。……最盛期には一村に一つか二つは存在したと考えられる。天保五年の総村数は六万三五六二である。この数字以上の膨大な寺子屋が大小さまざまに読み書き算用熱の時代の風にあおられて生まれた。

…寺子屋は一斉授業形式をとらない。個々の筆子の実情に合わせて師匠がカリキュラムを決め、手本を与える。しかし全国共通のお家流がベースにあるので教材、教科書はほぼ同一の様式をとるようになった。…寺子屋情報ネットワークが日本列島を隈なく網羅、包括していた。

 p35…登山する子どもは数え七歳から一四歳、……p37~「いろは」は学習済みとしてテキストとされていない。人の名前を覚えさせる「源平」(名頭ながしらともいう)、周辺村名の「村尽むらづくし」(村名)、日本国六六か国の「国尽」を学ぶのが基礎の初級、かろうじて日常生活に不自由しない程度である。

一年の暦のうつりかわりの「年中行事」、日々必須のお上のお触れを集めた「五人組条目」が中級で、戸主となってもやっていける。

世間を生きる専門知識が詰まった「商売往来」、「世話千字文(せわせんじもん)」の上級レベルをマスターすれば農業の傍ら商売も出来、面倒な村役も十分務まる。

……(七歳で登山した筆子伊八は)…つづいて中級の
「年中行事」(一年の行事のあらまし)・「借用証文」(金銭の貸借証文)・
「御関所書手形」(関所越え等旅の通行手形)・「田地売券ばいけん」(田畑売買証文)・
東海道往来(江戸から京都への幹線ルート東海道の名所史跡案内)・
五人組条目(村人が守るべき基本法令)・
「妙義詣」(妙義山参詣の名所史跡案内書、上州の郷土地理教材)・手紙(手紙の書き方)、
あわせて一〇のテキスト…足掛け6年、一年一本(冊)の進度になる。

ここまでで金がものいう激動の村社会とはいえ、十分に生き抜ける読み書き算用を身に付けたと思われる。一二歳になった伊八に師匠は、養蚕生糸業の活発な時世、商売に携わって村外に出ることなどを配慮して「商売往来」(一部省略)を学ばせた。

商売往来……「凡、商売扱文字、員数・取遣之日記・証文・注文・請取・質入・算用帳・目録・仕切之覚也、先、両替之金子、大判・小判・壱歩・弐朱、金、位・品多、所謂、南鐐上・銀子丁・豆板・灰吹等、考贋与本手、貫・目・分・厘・毛・払迄、…」(~千字ある)

この「商売往来」は読み書きを商品経済にマッチさせた優れたテキストで、商取引・貨幣金銀銭の両替につづき、あらゆる商品の名を列挙し最後は商人たるものの道徳「正直」で締める。

蚕繁昌の上州では農村の寺子屋でも重視された。翌年「百姓往来」、翌翌年一人前を控えた一四歳の伊八に仕上げの「世話千字文」うを与え、これをもって下山となった。…伊八の九十九庵在籍は八年…
世話千字文…鳳暦賀慶、御世泰平、何国静謐、自他幸甚、市店交易、廻船運送、荷物米穀、駄賃員数、勘定算用、商売繁昌、富貴栄耀、境界歓楽、益殖利息、弥貯金銀、普請成就、結構満足、新宅徒歩移、先以安堵、父母隠居、譲与財宝、家督相続、活計有福、人品柔和、律儀廉直、由緒系図、委曲聞繕、婚姻諸礼、恒例格式、朋友媒介、始終肝煎、玄関書院、掃除綺麗、庭前桜桃…(~千字)

          ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 現在の常用漢字が1945字、寺子屋では千字文2種で2000字だが、漢字は重複している。

つぎに、学制での教育現場をみてみよう。

■「日本歴史21 近代国家の出発」色川大吉;中央文庫p57~

さて、短時日のあいだに二万をこえる小学校を開設できた…どんな教育がおこなわれていたのだろうか。
…当時の第一級の啓蒙家たちは、自然科学の知識をふりかざして迷信・俗信に挑戦したが、そうしたことが小学校の知育主義教育にとりいれられている。東洋の道徳にたいする西洋の科学としてである。(寺子屋では儒家などが教えた。補)

福沢諭吉の「学問のすすめ」をはじめとする明六社(めいろくしゃ)の人びとの啓蒙書が、教科書に採用された。小学生にだけではない。

明治初年には、「学問のすすめ」が県庁から区長へ区ごとに一定数割り当てられたという記録もある。全国の教導職*がそうした本を利用し、文字の読めない民衆をあつめて、福沢の本や中村正直訳の「西国立志編*(さいごくりっしへん)」などを読みきかせたとも伝えられている。

明治六年に東京の常盤(ときわ)小学校に入学した星野天地*(ほしのてんち)は、七五調の「世界国尽*(せかいくにづくし)」と「日本国尽*」を節おもしろく暗誦したというし(「黙歩七十年」)、その前年に岡山県の小学校に入学した片山潜*は、地動説を始めて聞いて感動している。

「それまでは世界はまったく平面であり、天竺といえば高くして太陽に近い所、而して太陽は毎日東より西へ天空を走る者で、一日に金のわらじを三足も要するということを信じていた」(「自伝」)のにと。

明治7年東京の育英小学校に入学した内田魯庵*は、「『世界国尽』を飴屋の唄といっしょに暗誦した」というし、九年に入学した堺利彦*も「学校へ入る前、すでに福沢諭吉の「世界国尽」を暗誦していた」(「自伝」)という。

同じ九年に信州松本の小学校に入った木下尚江*(きのしたなおえ)は、「日蝕や月蝕は、日や月の苦悩疾病といわれていたが、その法則が明白になった。彗星というものは凶事の使者だといわれていた、とんでもないことになってしまった」(「神・人間・自由」)と科学への開眼(かいげん)を伝えている。…
浜名湖の近くの綿織物地帯の農村に生まれた豊田佐吉*も、そのころ小学校に入学したはずだが、トヨタ式織機を発明したかれの実験精神が当時の知育主義教育と無関係だったとは思えない。

…こういった科学的思考が、学校教育という制度によってもう十年間でも継続的に延ばされていたとしたら(現実には、明治十年代の民権運動の昂揚を怖れて、政府は新学制を廃止し、危険な批判精神の育成をおさえてしまった)、
いわゆる土着の民間信仰や民衆思想のもつ呪術性はよほど克服され…」(ていたことだろう:補) 

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■「日本の百年2 わき立つ民論」松本三之介編著 ちくま学芸文庫p411~

揺籃期の小学校 わが国の義務教育制度は、一八七二年(明治五年)の「学制」頒布によって、はなやかなスタートを切った。この「学制」は主にフランスの教育制度をとり、当初の計画では全国に五三,七六〇もの小学校が生まれるはずの規模宏大なものであった。

そして四民平等に士族の子も平民の子もいっせいに就学する建前はよかったが、その反面あまりにも画一的な強制主義であった。一八七七年(明治十年)文部省の役人として各府県を巡回視察した西村茂樹は、次のようにのべている。

――学制頒布後まだ日が浅いのに、各県の役人はよくその趣旨をわきまえて、都会はもちろんのこと山村僻地にいたるまで学校の設置は広くゆきわたっている。しかし役人たちは、ただもう政府の命令を後生大事に守り、杓子定規に教育をおこなっている。

これは実に遺憾である。ある地方の小学校のごときは、習字の時間に、墨をすり、筆をとり、字を書き、筆を置く、などの動作をいちいち号令でやっている。つまり、一字書くごとに四回の号令を掛けている、――と。(「往時録」、「泊翁西村茂樹伝・上」1939年)
 
こうして世界に冠たる就学率を誇るわが国義務教育は発足した。さて、われわれも一生徒の父兄代理を買って出て授業参観に出かけよう。その生徒の名は喜田貞吉(きださだきち。のち史学者となり、文学博士、京大教授、1939年没)。

1871年(明治4年)阿波徳島の農村に生る。1876年(明治9年)櫛淵小学校入学。以下は彼自身の回顧である。

「当時の櫛淵小学校は、新教育令に準拠して設立せられたとはいえ、実は昔の寺小屋の延長で、明治7年4月からただ名称が変わったというにすぎぬ。したがってもちろん教員は元の寺子屋のお師匠さんだった樋口先生が、そのままの居据わりで、教場も先生のお宅の納屋に低い床を張って、粗莚を敷いたのが一室きりという、きわめてお粗末なものであった。

生徒は各自机と文庫と座布団とを持って行く。生徒の数もやっと3,40名、お弁当は梅干を握りこんだ握り飯がおきまりだった。当時の学級編成は半年を一級として、下等が八級から一級まで、上等がまた八級から一級まで、合せて十六級のものを一室に収容したものだったが、

生徒の中には寺子屋時代から引きつがれた上級生があって、それが授業生という名目で、上級生指導の手助けをしたので、ともかく一人の先生でまに合ったものらしい。」

 喜田は当時六歳、満で四歳三ヵ月で、校内の最年少だった。この気の早い就学は、実は子守役の姉が九歳になって就学せねばならなくなり、

「それならついでにいっしょにつれてきて、子守しながら姉に稽古させてはどうだということになって、姉弟同時に就学したのであった」

喜田は同じ一年生の姉に負ぶわれて通学した。「当時の小学校における学科は、一方から言えばきわめて幼稚なものであったが、一方から言えばきわめて高尚なものであった。はじめ下等八級に入学すると、すぐに平仮名の『いろは』を習う。

それがすめば片仮名で五十音を習う。単語編というものを読ませる。絵入りの掛図になって、イト・イヌ・イカリ・ヰド・ヰノコ・ヰモリなどと序でた読み方教科書だ。それまでは無難だったが、単語編がすむとつぎには一足飛びに連語編というのを読ませる。

その第一が『神は天地の主宰にして、人は万物の霊長なり』というのを詠ませる。近ごろやかましい宗教教育(教育に宗教を持ち込まない:補)なるものを、このころにはキリスト教主義によって、こんなむずかしい言葉をもってさずけたのだった。

日本の神ではとても説明がつかぬが、しかし先生にも実はよくわからず、ただ暗誦させるばかりだからそれでもよかったのであろう。

『朝は五時に起き、夜は十時に臥す、働く時は労を厭わず、食する時は飽くを求めず』などという教訓的の語もあったが、阿波あたりでは冬季の五時はまだ夜明けにも遠い真っ暗な時刻で、もしそのころにこどもがのこのこ起き出しては、家庭のじゃまになってもそんな事はかまわぬ。

やがて小学読本というものをさずけられたが、大部分は西洋のリーダーの直訳で、国情にそわぬことおびただしいものだった」
 
この『小学読本』については後でふれよう。喜田が上級に進んだころは学級編成に変更があって、初等・中等・高等となった。

「高等科となるとさらに乱暴なもので、物理もあれば化学もある。政治学・経済学・解剖学などまでも教えられた。これらまた多くは西洋ものの直訳で、『地理学初歩』というものには

『地理学には三種あり、ヒシカルジョウガラヒーといい、マテマチカルジョウガラヒーといい、ポリチカルジョウガラヒーという』などという文句があった事を記憶する。

また『経済小学』の小売商のことを述べて『もし小売商なかりせば、麺包(パン)は俵にて買い、牛酪(バタ)は樽にて買わざるべからず』というような文句があった。
 しかしそのころ田舎では、パンやバタなど見たことも聞いたこともない。

先生もおそらくはご存じなかったらしく、バタは酒や醤油のような液体であるかのごとく説明せられたことを記憶している。
政治学の教科書はたしか『立憲政体』とかいう書名で、政体には君主専制・君民同治・共和政治などの別があり、わが国はその中の君主専制なるものだなどいうようなことがあった。」
(喜田貞吉『六十年の回顧』1935年)

 このおそるべき直訳主義がわが国の揺籃期の小学校の一大特徴であった。教え方は寺子屋式の棒暗記であるにせよ、察しのいい少年の心にはけっこうよくしみこんで、これが時には藩閥政治家の予想もしない人物を育てる温床となる。……

 「私の教えられた教科書は『小学読本』巻一であって、その最初のところの文に、
『凡そ世界(地球上の?)の人類は五つに分かれたり、亜細亜人種・亜米利加人種・阿弗利加人種・馬来(まらい)人種、日本人は亜細亜人種のうちなり…』
とある。私はこれにたいして幼な心にはじめて妙な感にうたれた。

すなわち世の中に人間は皆同じと思うていた(もっとも西洋人は父母から唐人として教えられたけれども)のに、かくのごとく五つの人種があるとははじめて知った。そして日本人はアジア人種の一つであるとは、またはじめて知った。…」

 …この『小学読本』は、アメリカのウィルソンのリーダーの反訳(ほんやく。翻訳;補)を漢学者が校閲してつくったもので、「見よこの猫は、恣(ほしいまま)に臥床の上に眠れり。これはよき猫にあらず」「彼の女は人形を持てり、汝も人形を好むか」といった文章がならんでいた。

…「明治十年代の末ごろまではまだそれを用いていたので、『凡そ地球上の人種は』という言葉は、酒屋や魚屋の小僧までがそれをさえずっていた」(長谷川如是閑『ある心の自叙伝』1950)

 …おりしも一八七九年(明治一二年)九月、文部省は『教育令』を制定する。…アメリカ教育制度に傾倒してつくったもので、従来の「学制」の画一的干渉主義を廃して、就学も自由放任主義をとった。…個性に合った自由な就学態度を肯定したわけである。

しかしこれも、やはり理想主義であった。自由放任は初等教育の無責任時代を現出して、せっかく上昇の一途をたどってきた就学率も学校の新設も、ガタ減りに減ってしまった。…

 代って一八八〇年(明治一三年)一二月、「改正教育令」が発布され、干渉主義にたちもどった。このたびはイギリス教育思想に範をとった。従来教授科目の最下位にあった修身が、トップにランクされたのは、儒教的要素が加味された結果でもあった。

 当時、東京深川の明治学校の下級生であった長谷川如是閑はいう。

「終身の教科書がそのころに出来た。……終身だけは反訳では困るというので、日本的のものをつくったのだが、内容はほとんど『誰々曰く』と先哲の言葉をならべただけのもので、とても五,六歳のこどもの頭に入るはずがない。

私もおぼえているのは、『貝原益軒曰く』の一句だけで、その益軒が何をいったのかはまったくわすれてしまった」(長谷川如是閑「ある心の自叙伝」)

 ところでこの朝令暮改の干渉主義復活にたいしては、民間の自由主義陣営からはげしい批判が投げかけられたが、また同時に地方では、保守派からあまりにも反訳的な教育にたいする不満の声があがった。ことに地方にその声が強かった。(p,418以下略 )

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■福沢諭吉「学問のすすめ」岩波文庫/初編/小幡篤次郎同著

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。
されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生まれながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との動きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずして各々(おのおの)安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人(げにん)もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。
その次第甚だ明らかなり。

実語教*に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来(いでく)るものなり。…

* 実語教(じつごきょう)…鎌倉時代に成立した児童教訓書。1巻。勉学の勧めや日常道徳などを仏教語を交えて書く。江戸時代手習所教科書として使用。同種の「童子教」(どうじきょう)ともあわせて使用された。

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「日本の下層社会」(岩波文庫、青109-)は、横山源之助が、明治29年から31年にかけて調査した労働者・貧民のルポルタージュである。

音二郎、貞奴の就学時よりあとの時代だが、工場に働く子どもたちの教育実態が記されている。(第九 職工教育p209~より)

大阪市立教育会が大阪府の50名以上の工場82か所の職工教育を調査したところ、回答があったのは22か所。
その工場労働者の総数1万5千6百84人のうち、学齢児童は四千三百二十九人。つまり、4分の1が学齢児童で、内訳は、男16%、女33%。
 
全職工の38%は無教育。50%は少し教育を受けている。10歳未満では無教育73%、少し教育27%。14歳未満では無教育40%、少し教育54%。合計85%は義務教育を欠けた者という。

大阪市立教育会の調査では、学齢児童は工場で朝夕2時間ずつの教育が施されていることになっている。しかし横山は教育会の調査の甘さを指摘する。

■「11時間半の労働に服し、夜業に従えるは朝六時工場を退きて読書・算術を習い、昼間の就業者はその疲れたる身体を以て夜間裁縫するを得べきや…紡績工場に職工教育なしと言うのむしろ事実に近きを信ずる者なり」(p216)

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明治の富国推進を支えたいたいけな子どもたちの教育実態である。それでも、横山が自分で調査した堺市の「段通職工教育部簡易学校」があり、ここでは実際に教育がおこなわれているという。

簡易学校は堺市商工会議所会頭の藤木正太郎という人物の熱意になるというが、工場側の敵意もあってはじめはスムーズに運ばなかった。明治29年現在ではようやく円滑にすすんでいるという。児童はふだん石版・石筆のみを用い、墨筆は一年に一度くらいしかつかわない。

横山が特に頼んで、子どもたちに書かせたものがある(p223,224)。呼び歳15の2年生女子が書いた「きぬいもきもの」、16歳2年生男子の「右之通受取候」、16歳3年生男子の「御問合仕候や」である。久しぶりに筆を持った子どもたちの文字はほほえましく、たどたどしく、このうえなくいじらしい。

恵まれた小学生たちは、西洋科学を中心とした新教育を受け、寺子屋での勉強や親の世代などとはまったく異なる新しい知識・新しい価値観を身につけはじめた。長い日本歴史の中でのコペルニクス的展開というにふさわしい、新世代の誕生である。

それは親子の関係をはじめ、世代間の確執にもつながったことだろう。何しろ学校から帰ってきた子どもたちは、「カミハバンブツノシュサイニシテ」とか「オヨソセカイノジンルイハイツツニシテ」とか「ミヨコノネコハ、ホシイママニガショウノウエニネタリ。コレハヨキネコニアラズ」、とか「ヒシカルジョーガラヒー、マテマチカルジョーガラヒー」などと囀るのである。

寺子屋での商売往来や孔子や孟子、あるいは囃子言葉や子守唄で育った親たちには、わが子がUFOからエイリアンになってもどってきたかのように見えたのではなかろうか。
そうしたことも、各地で起きつづけた不平士族の反乱や農民一揆の一因であっただろう。無理三段して資金を供出して学校をつくり、授業料まで払って、ヒシカルジョーガラヒー、何を教えているんだ!!

音二郎と同世代の教育環境を覗いたところで、さらに社会状況についてもみてみよう。
この時代の社会状況がどういうものであったか、とくに少年音二郎の育った博多、福岡周辺のできごとを一望することは、彼の人生を理解する上で必要である。
人間は社会的動物であり、子供といえど社会の動きと無縁ではいられない。

■明治元年(1868.9.8)
1.3~4鳥羽・伏見の戦(戊辰戦争起こる)
‐23暗殺を禁止2.3天皇,親征の詔を発布。
‐15堺事件。‐30英公使パークス、刺客に襲われる。
‐14 5か条のご誓文。4.25ハワイへ契約移民120人余渡航4.福沢諭吉、塾を芝新銭座に移し慶応義塾と改称(71.3芝三田に移る)
‐17長崎で浦上キリシタン弾圧―
28出版物の無許可発行禁止(6-8新聞も無許可発行禁止)
5.3奥羽越列藩同盟成立‐15討幕軍、上野に彰義隊を討つ
6,29学問所、9‐12開成所を復興
7.17江戸を東京と改称する‐19対馬藩家老,釜山で新政府成立を提出
9.8明治と改元。
この年現在の長野、栃木など諸県で農民騒擾(そうじょう)  「日本史年表」より
     以下略

文明開化した明治時代だが世情不安はつづき、次から次へと大小の事件が発生した。いますこし音二郎と社会の動きを探求してみよう。

■ 明治6年6月、筑前竹槍騒動
…筑豊からおこり、糸島の農民も呼応して30万。(あるいは10万)県庁まで襲撃。
■明治7年(1874)2.1佐賀の乱起こる 
3.1江藤新平逮捕 4.13処刑(斬罪、梟首きょうしゅ)
佐賀の乱においては、大久保利通が征討総督で、博多港に官軍の大部隊が上陸。音二郎の家は港のすぐ近く。

■ 西南戦争はじまる。明治10年(1877)2.15
   ■ 福岡の変。
   ■ 音二郎この年、博多出奔。東京へ。



□音二郎出奔の原因  佐賀の乱から西南戦争までの世情から考える

■江頭光「博多川上音二郎」西日本新聞社
☛ 十三歳といえば当時は商都博多一般の男の子にとって、自立への始動期に当たる。商業希望ならでっちゃん(少年店員)奉公、技能志願なら親方(師匠)に弟子入り、いずれも住み込みで親元を離れ修行した。音二郎の場合は、規制概念の枠を踏み破り大きく跳び出した。

それが家出という形を取ったものと思われる。西南戦争でピストン輸送に慌ただしい軍艦、汽船。上陸する鎮台兵が携える新式銃、洋式訓練による部隊行動。少年はそれらに目を見張り、文明開化の本源地、キャピタル東京を目指した。そうした想定が、この風雲児にはふさわしい。
           
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音二郎は新教育によって、学問による立身出世を教えられた。そして13歳で家出して上京したという。
家を出た理由は、家産がかたむき、生母の死につづいて継母との軋轢があったから、という家庭内の原因説がほとんどである。
しかし、少年音二郎に世の中の動きは影響しなかったのだろうか。

明治7年、「佐賀の乱」(江藤新平の乱)がおこった。征討の全権を握った大久保利通は、東京鎮台砲兵隊と大阪鎮台の政府軍とともに、軍艦で博多港に着岸し上陸した。10歳の音二郎が暮らす中対馬小路の目と鼻の先を、軍隊と物資輸送隊が続々と通過していったのである。

その記憶も生々しい3年後、明治10年には西郷軍が鹿児島を出発して「西南戦争」が勃発した。
諸本はこの年、音二郎が出奔したと書くが、西南戦争の前か後か、明確な時期を特定するものはない。上記江頭本では、政府軍を見て上京したと想定されている。

西南戦争の始まった2月といえば、日本海気候の博多では極寒の時期である。音二郎は団平船に隠れ、蒸気船に乗り移って家出した(井上本)としても、この季節には欠航もありうるし、家出の時期とするのは考えものである。
無鉄砲な音二郎だからこそ厳冬でも思いついたら即実行、ということも当然考えられるが。

家出原因の推測

以下は音二郎の出奔が、西南戦争の勃発以降だったとしての推測である。
征討軍は博多に上陸した。御用商人であったといわれる川上家は、廃藩置県によって経済的基盤を失ったというが、家の不幸をもたらしたその明治政府が、博多の港、音二郎の眼前に強圧的な軍隊という姿となって立ち現れた。

3年前の佐賀の乱に引き続いてのことである。その光景は少年音二郎の皮膚感覚に強烈に刷り込まれたはずである。

博多出奔を西南戦争の勃発より以降であったと仮定するなら、彼には日本を揺るがすこの内乱からいっときも目を離す余裕はなかっただろう。いつの世も戦争の経緯は人々にとってもっとも重要な関心事である。

西南戦争は西郷隆盛の「政府に尋問の筋あり」の言で、2月14日薩摩軍13,000人の北上にはじまった。
政府軍はすぐさま出動して、第1、第2旅団が博多に到着(2月22日?)し、悪天候のため翌日に上陸。初代福岡県令をつとめた有栖川宮熾仁親王*を統帥として洲崎の勝立寺(しょうりゅうじ)に仮本営を置いた。

つづいて第3旅団(25日)、別働第1旅団も博多に到着した(3月1日)。第2旅団が田原坂を総攻撃したのは3月11日、田原坂制圧は3月20日。最終的な薩摩軍敗北は9月24日である。 

★旅団の兵員数を確認→m21年の師団編成以降は、1歩兵旅団の平時人員数は約3,400人。

この間に福岡では元福岡藩士の武部小四郎、越智彦四郎、加藤堅武らが200余名とともに薩摩郡に呼応し、福岡城の鎮台兵を襲う「福岡の変」が起きた。

博多港から征討軍が続々と上陸し、進軍していった直後の、3月28日にはじまった地元における戦乱だった。博多中に激震が走ったはずである。

乱はたちまち鎮圧され、越智・加藤らは5月2日、武部は5月4日に処刑された。敗走したある者は「萩の乱」(m9.10月~12月)に呼応した嫌疑で捕縛され、ある者は薩軍に合流して戦死。102名が命を落とした。(Wikipedia)

戦況は新聞で逐一報道された。福岡では西南戦争が起って40日目の3月24日福岡県最初の新聞「筑紫新聞ちくし―」(下名島町。現天神)が発行された。

中島町の藤井孫次郎も記者になった。三日に一度発行、定価1冊3銭の半切二つ折りの和紙九枚(のち十枚)綴りで単行本のようだった。

35号で一時休刊、復刊して9月第40号で廃刊した。翌11年に藤井が単独で「めさまし新聞」を創刊、106号から「筑紫新報」と改称、206号から福岡観文社と合併して「福岡日日新聞」と改めた。自由党系日刊新聞として自由民権を主張した。

のち昭和17年「西日本新聞」に引きつがれた。また、下名島町(現天神)成美社からも8月「福岡新聞」が発刊された。編集には筑紫新聞の藤井孫次郎も入っていた。
(井上精三「葦書房版 博多郷土史事典」葦書房より)。

筑紫新聞の発行者は、福岡県人森泰と藤井。藤井は明治五年上京して新聞の重要性に気づき、帰郷すると自宅に新聞縦覧所を開設していた(「福岡県百科事典」西日本新聞社より)。

35号で一時休刊したというのは、発禁処分とも考えられる。福岡新聞が8月に発刊されているが、記者は森と藤井で、重複している。発禁の間に新しい新聞を発行したのではないだろうか。

一方、読売新聞など小新聞(こしんぶん。大衆向け新聞)には振り仮名もあって小学生にも読めたろう。また無料の新聞縦覧所には、記事を読み聞かせる大人たちもいて、子供らも聞き耳を立てていたにちがいない。

明治政府の急速な施策に怒りや戸惑いを覚えていた者は多かったし、川上家は明治政府によって家産を傾けていた。音二郎は家庭の事情と世の激動があいまって家を出たのではないだろうか。博多出奔が戦争勃発より以降であるなら、

① 早くとも第1、第2、第3、別働第1の各旅団がつぎつぎに上陸し、進発していったのちであろう。その間、博多港は民間には閉鎖されていたはずである。次に考えられるのは、
② 田原坂での薩軍敗戦のあとであろう。

以上は推測に過ぎないが、音二郎の家出を考えるとき、佐賀の乱・西南戦争という大乱を無視することはできない。
佐賀士族や薩軍優勢のあいだは、大人たちは明治政府への不平憤懣をぶちまけ、反乱軍敗戦以降にはしおたれ、明治政府への追従をひそひそと語り合う。

新教育によって世界や日本全域に視野を開かれた新世代が、旧世代の狼狽に冷ややかな視線を投じた、と想像することはそう無理ではないはずだ。音二郎は戦の推移を見とどけたうえで、「明治」の正体を自分自身の目で確かめようと上京したのではなかったか。


□貞奴の境遇

すでに自身の語りでみたように、貞奴も、実家の没落を経験している。
貞奴の母方実家である小熊家*は、祖父が幕府崩壊で与力職を失い、両替商・質屋・本屋などを生業としたが結局は士族の商法であろう、没落してしまった。

のちに夫婦となって波瀾万丈の人生を送ることになる音二郎と貞奴のいずれもが、明治維新に起因する実家の没落を経験したのだった。そうしたドラマチックな運命の変転は、なにも音二郎貞奴の二人だけではなく、似たような話はどこにもあった。
全国民の人生の吉凶がひとり明治政府にゆだねられていた時代だった。

二人はほぼ同時期に、文明開化の荒波高い「日本」へと乗りだした。

音二郎家出の翌明治11年、7歳*の貞奴は、葭町の芸者置屋浜田屋の女将である亀吉(浜田可免)の養女となった。養女となった年齢は4歳という説もある(童門本)。


□置屋の養女

7歳の少女貞奴の新しい境遇、「置屋の養女」とはどういうものだっただろうか。
芸者は置屋で踊りや舞などを仕込まれるが、これを「仕込み」という。12~3歳になると「半玉*」として座敷に上がり、15~6歳で「一本」(一人前の芸者)になる。

ここで養女というのは、実は置屋に売られたのであり、この仕組みは江戸時代からうけつがれた公然たる人身売買であった。

*半玉…お酌ともいう。玉代(料金)が芸者の半分なので半玉。京の舞妓にあたるが舞妓は芸者と同じ料金

ただ、当時の倫理観が現在とはかなり違う点を考慮しなければならない。直截に性を売る遊女(娼妓)の場合でも、次のような感想がある。

「逝きし世の面影」で、ポンペ「日本滞在見聞記」を引用しながら、渡辺京二が書く。(pを)

■ 遊女屋は「公認され公開されたものであるから」彼女(遊女;補)は軽蔑の対象にはならない。「日本
人は夫婦以外のルーズな性行為を悪事とは思っていない」上に、彼女らは貧しい親を救うために子どもの頃売られたのである。「子供は両親の家を後にして喜んで出て行く。

おいしいものが食べられ美しいものが着られ、楽しい生活ができる寮制の学校にでも入るような気持で遊女屋に行く」。「この親子はいわば自分たちを運命の犠牲者と考えているのである。

両親は遊女屋に自分の子を訪問し、逆に娘たちは外出日に両親のいる住居に行くのを最上の楽しみにしている。娘が病気にかかると、母親はすぐに看護に来て彼女を慰める」


              ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

現在の日本人なら唖然とするだろう。おなじように幕末から明治にかけて来日した外国人のだれもが、日本人の性倫理にとまどっている。ボンペは芸妓と娼妓を混同しているようにも見える。
日本側の資料も見てみよう。

■阿部恒久・佐藤能丸「日本近現代女性史」芙蓉書房出版p44.45
花柳界と明治の廃娼運動――近世に成立した芸娼妓社会は花柳界と呼ばれ、明治維新後もほぼそのまま受け継がれた。芸者社会は政・官・財界や軍人たちの社交場として栄え、「待合政治(まちあいせいじ)」が政治文化の一つとなった(資料①)。他方、娼妓社会は貸し座敷制に衣替えしたが、前借金(ぜんしゃくきん)で縛られ、外出の自由がないことに変わりなく…。

資料①/江戸時代における水茶屋、出合茶屋等の機能を発達したる物にして、東京地方の特産なり。料理業を兼営する事なく席料,茶代、玉(ぎょく)祝儀のハネ銭等に依りて経営す。席料普通二円以上五円、女中一円以上二円、芸妓出先の大部を占む。

明治年代国家の大事を議する者は必ず此の処に於てするを常と為す、之を以て待合政治の諺あり、満都の不見転(みずてん=先を考えず行動すること;補)者流多く此処を以て戦場と為す。

明治初年の交(こう。かわりめ)は其の数反って船宿の半に如かざりしと云ふ、時流思ふべし。
(花園歌子*「芸者通」六五~六頁、一九三〇年(S5)六月、四六書院)
 
*花園歌子…ダンサー芸者といわれた。花街について膨大な資料を集めて書いたのが「芸者通」である。

             ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「待合政治」の真っ只中で、貞奴は成長した。そこは最も江戸色の濃い「旧世界」であった。

明治になって、待合政治とよばれる芸妓をはべらせた遊興の習俗は、幕末においても天下国家を論じる勤皇派、また左幕派の別なく盛んであった。

幕末には、博多に逃れた長州の高杉晋作が潜伏先の高宮村野村望東尼の居宅から、千代松原(現東公園付近)の水茶屋まででかけて、勤皇派との密談を交わしたというし、明治になっては民権運動の領袖板垣退助なども、政治演説や集会の打ち上げは決まって料亭や待合であったという。

板垣の片腕であった植木枝盛は遊郭通いがこうじて、自宅の書斎を赤い壁、銀箔型押しなどで遊郭風につくり「東洋大日本国国憲案」(私擬憲法)を書いた。(確認)

自由党左派で大阪事件をおこした同志らもつぎのようなありさまで、紅一点の景山英子(かげやまひでこ。結婚して福田英子)を怒らせている。

■(福田英子「妾の半生涯」(わらわのはんせいがい)岩波文庫)
急ぎ其の旅寓に来たれよとの事に、何事かと訝りつつも行きて見れば、同士ら今や酒宴の半ばにて、酌に侍せる妓(ひと)のいと艶めかしうそうどき立ちたり。

…同氏は如何様の余裕ありて、かくは豪奢を尽すにかあらん、ここぞ詰問の試みどころと、葉石氏に向かい今日(こんにち)の宴会は妾(しょう=わたくし)ほとほとその心を得ず、

磯山氏よりの急使を受けて、定めて重要事件の打ち合わせなるべしと思い測れるには似もやらず、痴呆(たわけ)の振舞、目にするだに汚らわし、アア日頃頼みをかけし人々さえかくの如し、

他の血気の壮士らが、遊郭通いの外に余念なきこそ道理なれ、さりとては嘆かわしさの極みなるかな…

         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

文中、葉石(はいし)とあるのは当時英子の婚約者だった小林樟雄(くすお)の変名。英子はこの一件で婚約を破棄したという。

これが、音二郎と貞奴が生まれ育った明治でもあった。
こうした風土の中で、幕末・明治期に芸娼妓を妻にした人物は何人もいる。伊藤博文は下関(馬関)芸者の梅子を妻にしている。桂小五郎のちの木戸孝允(きどたかよし)の妻は京都三本木の芸者幾松。井上馨も、山形有朋も、森有礼も妻は芸妓だった。

近藤勇なども芸妓を妻あるいは何人も妾としている。勤皇左幕が命がけで押し合いへしあいする幕末、国を動かしたのは、アンダーグラウンドで策動する下層の武士・郷士たちであり、男たちを支えたのは、もうひとつの世界を意地と気っ風で生きぬく女性たちであった。

内外の緊張のつづく激動の明治開明期にも、天下国家の密事を諮るには、客の秘密を外に漏らさない花街の仕組みがかなっていたし、閉ざされた世界でこそ、つかのまの安らぎも得られたのである。

こうした下世話というべき男と女の風景は、貞奴の人生を考えるとき避けてとおることができない。貞奴はその世界の人として育つのである。

     
         川上音二郎と貞奴―少年期 完(仮;120612)    青年期へつづく

                         おまけ;泉鏡花の妻も芸者 坪内逍遥の妻は遊女


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